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2006年5月30日 (火)

「大楠公」はなんで標準語なんや?おかしいけんけ

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

気がつけば一週間以上更新していませんでした・・・ひとえに疲れで起きれなくなっていたためです。スンマセン。

さて、今日のお題は「言葉って大事」です。

そもそもこのことを意識するきっかけとなったのは映画「ラストエンペラー」です。その冒頭で西太后が英語で「Black Pearl・・・」といっていたのを聞いて、チョー違和感を感じました。

「中国人が、しかも洋物嫌いの西太后が英語なんか話すわけないやろ!」

たしかにハリウッド資本による映画で基本的にアメリカ人向けの映画なので、お客さんのことを考えると英語で台詞を作ったのでしょうが・・・リアリティと言う面で大いに問題だと思いました。だって、ありえないでしょ??また、坂本龍一演じる甘粕正彦も英語を話しておりました・・・もう、なんだかなぁ、って感じでした。

あんまりにも、他国の文化・言語に対する敬意というか配慮がなさ過ぎる、と思いました。

その点日本映画はキチンとしています。外国人の役ではその国の言葉をしゃべらせていますし、方言もキチンとしゃべらせているほうだと思います。

しかし、映画・TV・小説や漫画の世界で取り上げられる歴史上の人物で、これはないんじゃないの?という扱いを受けている人がいます。表題であげている「大楠公」楠正成です。

彼はどこから見てもコテコテの河内のオッサンです。生まれも育ちもそうですし、特に後半生の「負けると分かっていても後醍醐帝の命に従って戦う」姿は浪花節そのものです。にもかかわらず、彼の台詞が河内弁・大阪弁である場合は滅多にない、全くないのはどういうことでしょうか???

「大楠公」の実際の台詞を想像すると、結構イメージが変わると思うのですが・・・いかがでしょう?

でも、この考えで行くと京生まれ・京育ちの源頼朝は京言葉を話していないと変、ってことになりますね。

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2006年5月22日 (月)

これぞノワール!新堂冬樹「毒蟲VS溝鼠」

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

久しぶりの長期シリーズが終って少し間が空いてしまいました。もう5時にはすっかり日が昇り、明るいですなぁ。

さて、今日のお題は作家・新堂冬樹の新作「毒蟲VS溝鼠」について、です。

新堂冬樹という作家は両極端です。「無間地獄」「カリスマ」「ろくでなし」といったどろっどろに暗黒な小説と「忘れ雪」「ある愛の詩」といった純愛小説を著しております賀、ヤマサン的にはやっぱり新堂冬樹といえば「ドロッドロに暗黒な小説」なのです。(そもそも新堂冬樹の純愛小説、読んだこともないし読む気もしません)なかでも最低にドロッドロなのが「溝鼠」シリーズ(?)です。

復讐代行業をいとなむ「溝鼠」鷹場英一。異常に自己中心的で金銭に汚く、他人を一切信用せず利用することしか頭にない。加えて異常な加虐嗜好の持ち主。フィクション上の人物でありながら作者新堂冬樹は彼のせいで「親戚から他人を装われた」りもしたそうですが、それもうなずけるほど「醜い・汚い・嫌らしい」人物です。

その「溝鼠」に深い恨みを抱く別れさせ屋・「毒蟲」大黒。鷹場と大黒の2トップに群がる者どもの卑しいこと卑しいこと。人を殴らないと禁断症状のでる「パンチドランカー」やら究極のサドともいえるカッパはげの親父やら人の苦しむ顔で欲情する元高校球児やら異常に被害妄想の激しい小卒チビ・・・よくこれだけ救いのない面々を描けるものだと感心してしまいます。

詳しくはこちら

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2006年5月17日 (水)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑪

おはようございます。(今日の起床時間=5:30)

1199年、頼朝が謎の死(武将が落馬?にわかには信じ難い)をとげて以降、発足したばかりの幕府はごたつきます。後を継いだ頼家は典型的な「ダメ2代目」で、御家人にも愛想を付かされついには祖父の北条時政により暗殺されてしまいます。さらにその後を継いだ実朝は歌人としてはつとに有能でしたが武家の長としての統率力に欠け、頼家の遺児公暁により暗殺されてしまいます。

このごたつきを京からじっと眺めていた後鳥羽上皇。かねてから鎌倉武家政権を快く思っていなかった彼はこの「ごたつき」で鎌倉政権における武士の結束力が弱まったと判断します。そしてこの機に乗じて鎌倉幕府の実質的なトップである2代執権・北条義時の追討令を発します。

鎌倉に動揺が走ります。院自らが追討令を出し、自らの出馬するという事態に、「朝敵」になりたくないという心理が働き鎌倉に着くか院につくか、多くの武士が迷いました。まだまだ朝廷の権威は大きく、正面切って院の命令に逆らうことには非常に大きな心理的抵抗があったようです。

「朝敵」として追討の対象となった鎌倉政権。この大ピンチに「尼御台」北条政子が立ち上がります。

「お前たち良く聞きなさい。亡き頼朝公が与えてくださった恩を思い出しなさい。お前たちの所領を認め、保障してくださったではないですか。この恩は海よりも深いものです。この恩を思っても朝敵になりたくないというのであれば仕方がない。京側に着きなさい。でも頼朝公の恩に報いようとするのであれば、いますぐ院をたぶらかす近臣共を討ち滅ぼすのです」

この演説に武士の動揺は収まり、結束を取り戻した鎌倉軍は上皇軍を圧倒します(1221年承久の乱)

ここで注目していただきたいのは「頼朝公の恩」と言う点です。武士が最も欲しかった「所領の保障」を与え、その代わりに忠誠を引き出すバーター取引のシステム「御恩と奉公」。このシステムがこのピンチに最大限機能いたしました。「朝敵」になるのは当時の人間にとっては我々が想像できないほどの心理的抵抗があったことでしょう。(戦時中に「非国民」呼ばわりされるようなものでしょうか?)この抵抗感をも押さえつけ、鎌倉への忠誠を引き出すだけのパワーが「所領の保障」にはあったということです。ここに着目し権力の基盤を構築した頼朝は正直凄いと思います。

承久の変は明らかに当時の人々に価値観の変化をもたらします。それまでは天皇・上皇の意向は絶対で「神聖ニシテ侵スベカラズ」であったのが「無体な命令には従わなくても良い・異議申し立ても可能なのだ」となりました。天皇・上皇無謬説が否定されたともいえるでしょう。実際承久の乱の事後処理で武士が上皇を処断してしまいました。これは革命とも言っていいことでした。「下克上」という言葉がありますが、いわば「超下克上」です。天皇・上皇からみれば下座も下座の武士が上皇を処罰し貴族の所領を没収してしまったのですから。

どうしても義経の敵役ということで人気薄ということもあり、また一門に冷淡な処遇をしたことで「冷酷な独裁者」というイメージで語られることの多い頼朝ですが、ワタクシはもっと評価しても良いと思います。確かに源氏直系の血族はたった3代で途絶えてしまいますが、彼の構築した幕府は150年、武家政権と言う意味では680年存続しました。その基盤を構築したことは非常に大きいと思うのです。いままで権力の担い手とはみなされなかった武士を糾合し今までになかった権力基盤を創出した手腕。大したものだと思いませんか?

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2006年5月16日 (火)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑩

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

さて、時間を少しさかのぼります。1185年、頼朝へ反旗を翻した義経は後白河法皇に迫って頼朝追討の院宣を出させます。が、「朝敵」となったにもかかわらず頼朝打倒の兵は集まらず、クーデターは失敗に終わります。頼朝はこの機会を捉え、朝廷に「義経追討のため」あることを認めるよう強要します。「守護・地頭の任命権」です。これにより、頼朝が家人に軍事・警察権(守護)および土地の管理権(地頭)を与えることが公的に認められました。

このシリーズでも何回も書いたように、武士が一番欲しかったのは「土地所有権の保障」です。これを「地頭職の補任」と言う形で具現化したのが地頭職の補任権です。鎌倉から「地頭」に補任されることで所領が鎌倉から公認されます。万一「公認」された土地を侵略するものがあれば、それはすなわち鎌倉への反抗となり、最大30万騎の動員力を誇る鎌倉政権を敵に回すことになります。これは土地の侵略にたいしては大きな抑止力となりました。ので、鎌倉からの地頭職への補任は「土地所有権の保障」と言う面では大変大きな効果をもたらしました。

この「土地所有権の保障」を「御恩」として与え、それと引き換えに鎌倉に忠誠を誓わせ、命令に従わせるという「ギブアンドテイク」の関係を「御恩と奉公」といいます。当たり前のように歴史の授業で習いましたが、結構画期的なことだとワタクシは考えます。いままで武士に対しては基本的に権力者は「ギブ」などしてこなかったわけですから。(たまに官位を与えて名誉欲を満たすくらい)実質的な「ギブ」を、武士が一番必要としていたもので行うシステムを構築した頼朝は、大変見る目があったとワタクシは評価しております。

義経が討たれ、藤原氏を攻め滅ぼした翌年(1190年)上洛します。そこで大納言への就任を求められますが断ります。しかしその後権大納言への就任を「強要」され、また武士としての最高の官位である近衛大将にも任命されます。しぶしぶ一旦受けますがすぐに辞任、鎌倉に帰ってしまいます。この上洛で以前から求めていた「征夷大将軍」への任命が果たせなかったためです。この「征夷大将軍」という位は、元々辺境の異民族(夷)が反乱を起こした際に設置される臨時の職で、軍を自由に召集・動員でき、兵糧の徴収・裁判権の行使など広範囲の行政権を認められ、かつ都にいなくて良い立場であるので頼朝の目指す武士政権の長としては都合の良い官職でありました。しかしそこは「大天狗」とまでよばれた後白河法皇、頼朝の目論見はちゃんと分かっていました。ので、征夷大将軍の任命はかたくなにNOを出し続けていたのです。公的なフリーハンドを与えるわけにないかなかったのです。

しかし、後白河法皇が亡くなるともはや朝廷には頼朝からの圧力を跳ね返すだけの力もなく、ついに征夷大将軍への任命がなされます。これが「イイクニ作ろう鎌倉幕府」1192年のことです。ここにいたって名実ともに「朝廷に対抗しうる武士の・武士による・武士のための政権」が一応完成いたします。

土地の所有権を保障し、代わりに忠誠を誓わせ命令に服させる。この「御恩と奉公」システムが最大限機能するのは、実は頼朝が死んだ後であります。と言うところで今日はここまで。明日はいよいよ最終回「御恩は朝敵に勝るか?」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月12日 (金)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑨

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

昨日はどうしても早く出社する必要があり、1回更新をスキップさせていただきました。で、気持ちを新たに行きますよ~。

奥州で藤原泰衡が義経を討ったという知らせを聞き、頼朝は全国津々浦々に大動員令を発します。それは薩摩の島津荘にまでおよび、総勢28万4千騎が鎌倉に集結しました。これを3手に分け奥州へと進軍を開始。自らも総大将として北上を開始しました。

途中阿津賀志山で交戦した以外は戦闘らしい戦闘もなく、阿津賀志山の敗戦後平泉を焼いて逃亡した泰衡が逃亡中に部下に首を討たれた時点で戦争は終結した、はずでした。

ところが頼朝は平泉で軍を止めることなくさらに北上します。そして、かつて前九年の役での最終決着の地、厨川に全軍を集結させます。

頼朝からさかのぼること五代。源氏の棟梁頼義は陸奥守として俘囚の長・安倍頼良・貞任の反乱の鎮圧に当たりましたが、12年がかりでも鎮圧できず、最終的に出羽の俘囚の長・清原氏の軍事力をもってやっと鎮圧できました(前九年の役)結果、乱後の奥州の権益は清原氏が全て手にすることになり、12年かけて血と汗を流した源氏の棟梁頼義はいわば「働き損」になってしまいました。以降奥州制圧は源氏累代の悲願でありました。(後三年の役でもまたもや「働き損」になりましたし)

その「故事」を踏まえ、厨川に全軍集結させた頼朝は、部下に討ち取られた泰衡の首を釘で打ちつけ、かつて前九年の役で反乱軍の長・安倍貞任と同じ方法で晒します。こうして累代の悲願・奥州制覇を成し遂げることに成功しました。

全国の武士を膝下に置くことに成功した頼朝。しかし戦いはこれにて終わりにはなりませんでした。以降、最後の戦いを挑むべく京へと上洛の兵を挙げました・・・と言うところで京はここまで。明日は「鎌倉武士労働組合発足!」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月10日 (水)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑧

おはようございます(今日の起床時間=5:00)

前九年・後三年の役から約100年。陸奥・出羽に君臨した藤原氏は清衡・基衡・秀衡の三代にわたり平和を享受しておりました。肥沃な大地と駿馬・砂金といった特産物の生み出す富を基に大層繁栄しておりました。都で保元・平治の乱から騒乱が起こったときも、当主秀衡の巧みな外交手腕により奥州に騒乱が持ち込まれることはなく、相変わらず平和と繁栄を享受しておりました。特に源平合戦が始まってからの外交は「どちらに転んでも大丈夫なように保険をかけつつ双方を敵に回さない」ことに成功しています。清盛からの源氏討伐令には了解する返事を出し金・駿馬を貢いで平家に恭順の意を示しつつ源氏の御曹司・九郎義経を密かに庇護したり、頼朝挙兵後はその義経を兵を付けずに鎌倉に送り届けたり(兵を付けてしまえば完全に平家を敵対することになりますが、そうしないことで万一源氏が負けた場合にも「義経が勝手に飛び出て行っただけで決して源氏に与力したわけではない」といい逃れる道を残しています)といった具合です。

奥州の富と巧みな外交手腕で平和と繁栄を享受してきた藤原氏ですが、環境は徐々に厳しさを増してきます。源平合戦で源氏が勝利し、頼朝が全国の武士を膝下に置き「幕府」を設立しようとしている最中、当主秀衡は密かに苦悩しておりました。頼朝は決して奥州をこのまま放っておくまい。なぜなら彼の目指すものが「全武士を自分の膝下に置く」こと(前回書いたように武士の組織化率が高ければそれだけ権力も増します)であり、奥州17万騎の独立勢力は認めないであろうことが段々分かってきたからです。明確に敵対はしないものの、義経が頼朝と対決し、奥州に亡命した際には再び庇護し、頼朝との対決姿勢をあらわします。

義経を庇護した段階で、推測ですが秀衡は鎌倉との全面戦争を覚悟していたのではないでしょうか。このままではこちらがいくら恭順の意を示したとしても戦争をふっかけられるのは避けられない。そうなれば奥州以外の全国から兵を動員できる鎌倉方の軍事力ゆえ、勝てる見込みは少ない。しかし頼朝は決して17万騎という膨大な軍事力を持ったまま藤原氏の存続は認めまい。となると・・・

義経は「戦バカ」ですが戦争の腕は一級品です。この腕と奥州17万騎の軍事力・および地の利を生かした戦いをすれば、何とか光明を見出せるのではないか。いや、光明を見出そうとしたのではないか、とワタクシは推察するのです。行くも地獄・引くも地獄。厳しい状況の中で見出したかすかな光に秀衡は「賭けた」のではないか、と思うのです。

いまわの際に嫡男泰衡に「義経を総大将に頂き皆で支えよ」と遺言しますが、これも奥州藤原家が生き残る術はこれしか残されていないという認識でいたからだと思います。

しかし、秀衡ほど状況判断能力のない泰衡は、冷静に考えれば許してくれるはずもない(そもそも藤原氏をつぶす口実と機会を狙っていたのは明白!)ことは明確であるのに、目の前の頼朝の軍事力・軍事圧力から逃れることしか頭になく、義経の首を土産に許してもらおうと願い出ます・・・上に立つものが状況判断できないと悲劇を招く、典型的な事例です。こうして奥州藤原家は自滅への道を歩みだしました・・・

というところで今日はここまで。次回は奥州藤原家の終焉と幕府の誕生をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月 9日 (火)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑦

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

源平合戦のスター・九郎義経。前回彼を「戦バカ」と評しましたが、その理由を述べたいと思います。

兄・頼朝と反目するきっかけとなったのは、一の谷の合戦後に頼朝に無断で五位検非違使の位を受けたことですが、このことについて義経自身は何でこのことが頼朝を怒らせたか理解できていません。このことは源平合戦後に平家の総帥平宗盛を鎌倉に連行するも手前の腰越に留め置かれた際に彼が書いた「腰越状」に「位を受けたのは源氏の名誉のためであり、他意はございません」といった意味のことを書いていることからも明らかです。「えー、位を無断で受けたくらいでかわいそう」と思われるかもしれませんが、私は至極もっともだと思っております。

頼朝の目指したもの、それは「朝廷権力も出が出せない、武士の・武士による・武士のための権力基盤の設立」です。20年の流人生活で武士の置かれている状況・一番の願いが「所領権の保障」であることを頼朝は知ります。そこで、源平合戦以降彼が目指したのは、従来の権力機構の中での出世ではなく、全国の武士を一まとめにし、その武力を背景に武士の所領の後ろ盾になる組織を作ってその長になることで朝廷内での出世と比肩する権力を手に入れることです。会社で出世するのではなく、労働組合を作ってその委員長になるようなものでしょうか。会社と対等に交渉できるような組合を作るにはどれだけ労働者を組織化できているかが鍵となります。組合員占率が低ければ、非組合員の労働者をたきつけることで組合を取り崩すこともできますし、なにより資本家の側しにしてみれば占率の低い組合の要求なんて怖くありません。よって、頼朝が結成を目指す「鎌倉武士労働組合」にとって何より大事なのは組合員占率、つまり全国の武士を頼朝の傘下に入れるということでした。

そのような状況の中で、頼朝に無断で朝廷から位を受けるということは、組合員が会社からポストを餌にした「組合つぶし」に引っかかったのと同じです。親会社=朝廷からポストを欲しいのはどの武士も同じです。しかし頼朝は朝廷よりも自分=幕府の命令に武士を従わせないといけません。そうでないと朝廷に対して物言いしようとする場面に直面しても自分よりも朝廷の言うことを聞く武士がいればその武士に足を引っ張られることになりかねません。だから御家人には「頼朝に無断で朝廷から位を受けてはいけない」という命令を下していたのです。

それをよりによって委員長の弟が破ってしまいます。朝廷の「組合つぶし」にまんまと引っかかってしまいます。(しかも本人にその自覚なし!)「弟だから」と特別扱いすれば「委員長の弟も位をもらったのだから、私ももらっていいんだ!」と解釈する武士が続出する可能性は非常に高くなります。そうすると「幕府よりも朝廷の言うことを聞く武士」が殖え、結果朝廷に対して物言いする場面がきても朝廷に勝てなくなってしまいます。そうなると「武士の所領の後ろ盾」にはなりえません(国衙の役人に御家人の所領の収奪を止めさせることもできなくなります)

このほど左様に義経の「無断任官」は頼朝にとって、頼朝が目指す「鎌倉武士労働組合」=鎌倉幕府設立という目的に照らせばいかに許しがたいことであるかがわかります。それが分からなかった義経を、私は「戦は上手だけど自分のおかれた状況を的確に判断する能力に欠ける」と言う意味で「戦バカ」と呼ぶのです。

さて話を少し戻すと、義経投入後あれよあれよと言う間に平家を西へ西へと駆逐し、ついに壇ノ浦で海の藻屑としてしまいます。そこから頼朝との確執が表面化し、ついには頼朝へ反旗を翻すにいたります。頼朝へのクーデターは失敗し、転々と逃亡を繰り返し、ついには若き頃お世話になった奥州藤原家に身を寄せます。北の王者・藤原秀衡は爆弾を抱えることになると知りながら彼を再び庇護します・・・と言うところで今日はここまで。次回は「北の王者・秀衡の苦悩と賭け」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月 8日 (月)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑥

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

さて、とうとう20年間伊豆でプー太郎生活を送っていた頼朝君の下にも以仁王からの「平家打倒」の命令書が届きましたが、それまでのプー生活で知ったことがあります。それは・・・武士が何を一番欲しているか、いかに武士の所領の領有権が不安定な状態にあるかということでした。

気を抜いていると隣近所の武士やら国衙の役人やらが手を出してくるような状態で、それを裁いてくれるところもありません。自分の身は自分で守らざるを得ない時代。「自己責任」といえば聞こえはいいでしょうが、これじゃ安心して生活できません。土地がなくなってしまえば自分や一族郎党路頭に迷いますから。

とはいえ、以仁王の令旨が届いたからといって自前の軍隊があるわけでなし、舅の北条時政の軍にて挙兵するものの石橋山で大敗。命からがら脱出し、関東一円の「反平家武士団」の挙兵を待ちます。体制が整ったとこで一門とゆかりの深い鎌倉に拠点を築き、そこから指令を出すスタイルをとります。というか、とても本拠地を空けることの出来るような状態でなかったというのが実情で、まだ平家に組する武士団も関東には多く、また源氏・平家のどちらに付くのか不鮮明な奥州藤原氏の存在も不気味でした。(後ほど書きますが、奥州藤原氏三代秀衡ほ中立外交は見事の一言でした)。そこで自分は本拠地鎌倉に腰をすえ、部下に軍を率いさせて派遣すると言うスタイルをとります。自分は鎌倉で武士を組織化し、武士の所領を自らの権威で保障する体制の構築に入ります。

ここでスターとなったのが「戦バカ」九郎義経です。潜伏先の奥州から兵を伴わずに鎌倉入りし、(「兵を伴わず」というところに秀衡のうまさがあります)あれよあれよと言う間に木曽義仲・平家を倒していきます。その将帥としての腕は一級品といってよいでしょう。

しかし、ワタクシは義経を余り評価していません。先ほど書いたとおり「戦バカ」だと断じております。それは義経の状況判断能力の低さ、頼朝が何をしようとしているかが余りにも見えていなかったからです。

「えー、それってどういうこと?」となりつつ今回はここまで。次回もお見逃しなく!

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2006年5月 7日 (日)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑤

おはようございます。(今日の起床時間=6:30)

保元・平治の乱を経て中央政界での地位を築いた武家・平家。一門の長清盛が正一位太政大臣に出世したのを筆頭に一門の者が軒並み高い官位を得、また所領・知行国(国司の任免権を持つ国)・国司を務める国も激増。経済面でも大発展を遂げます。

一方平治の乱にて「負け組」に組した源氏はというと、棟梁義朝をはじめ乱に加担した武将はあらかた死刑となり、嫡男頼朝(当時13歳)のみがほぼ唯一の例外として伊豆に島流しにされ命長らえておりました。(とはいえ平家方に加担した「源三位頼政」を初めとする摂津源氏は中央政界でブイブイいわしていたのですが)

親父・兄弟をあらかた殺され、家来も所領もなく伊豆に軟禁状態の頼朝君。地元の武士の娘に手を出すといったこと以外はなーーーんにもすることがなく、ニートの如くブラブラしておりました。でも男前だったので女にはモテた様でございます。ウラヤマシイですな。

頼朝が伊豆でブラブラしている20年間、2つの「反平家感情」が醸成されておりました。

①「一門とその周りの武家だけおいしい目をして、我々の暮らしは楽になるどころか返って平家方の武士に所領を脅かされるようになった。せっかく我々と同じ立場の人が政権をとったということで期待をしていたのに・・・」という武士

②「武士という卑しい身分でありながら昇殿をゆるされたばかりか参議にもなり、あまつさえ太政大臣だと?ワシらの領分を荒さんといて欲しいわ」という貴族・皇族

とくに①武士の不満は切実であったろうと思われます。武士の一番の願いは所領の安定。先祖代々受け継いだ土地をいかに守るかが至上命題である彼らにとって一番欲しいのは「所領の所有権を保障してくれる存在」です。平家が政権をとったときに全国の武士が期待したと思いますが、その期待は見事に裏切られます。結局貴族・寺社と同じく自分の所領を広げることしか関心がないということが明らかになりましたので、成功者へのやっかみも含めて「なんや、平家なんて」という空気が出来ていった(但しこれをあからさまにやると追討されてしまうので、腹の中で)と思われます。

最初にカタチに現れたのが②の不満です。自分では実現させる力もないのに後白河法皇の別荘に集まって「平家打倒の謀議」を企てた「鹿ケ谷事件」(実態は謀議というよりは酒の席での愚痴だったそうです)。当然、平家によってつぶされます。次に噴出したのが後白河法皇の三男の以仁王。清盛の娘が生んだ皇子が天皇に即位(安徳天皇)したのを受け、自分に皇位が回ってくることがなくなったのにヤケになったのか(でもこの方、親王宣下も受けていないので、元々即位できる可能性はほとんどなかったのですか)クーデターを企てます。クーデター自体はあっという間に鎮圧され、本人も矢に当たって戦死します。(源氏で唯一中央政界に残っていた源三位頼政もクーデターに加担して戦死します)

しかしその際に全国の武士に宛てた命令書=令旨が源氏一門のハッタリ屋、十郎行家によりばら撒かれます。この令旨(本来親王しか令旨を出せないのですが、ここでは身分を偽って出しました)が①の空気に火をつけ始めます。が、依然巨大な軍事力と経済力・および天皇を擁しているので「官軍」足りえる平家の絶対優位は揺るぎません。

20年間のプー太郎生活がすっかり板についてきた元少年武将・頼朝。しかしこの20年間で実はその後の人生と日本の歴史を決定付ける大きなことを学んでいたのです。と言うところで今日はここまで。次回はニートを卒業し社会に向かって歩み始めた「頼朝君のドキドキ源平合戦」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月 6日 (土)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その④

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

3日から5日まで京都の実家に帰っていたのですが、帰ったその日に風邪をひきまして、風邪のおかげでお腹を壊してタイヘンでした。一日8回トイレに駆け込み、そりゃぁ苦しみましたさ。最初はこれを機会に「私の中の良からぬモノ」をジョビジョバァ~っと出してしまおうと思っておりましたが、しまいにゃぁ出すものがなくなっても排出意欲だけは収まらず・・・ってな状態になり、実家の近所の休日診療所に駆け込む事態となりましたとさ。

しかし昨日で復活しましたので、今日から「日本通史」を復活させていただきます。皆様、宜しくお付き合いのほどを。

「この世をば わがよとぞ思う~」と栄華を極めた藤原摂関家。しかしそれも藤原氏を外戚としない後三条天皇の即位(1068年)によりその権力基盤を揺るがせ始めます。後三条の後を継いだ白河天皇は息子(堀川天皇)に皇位を譲った後天皇の父として朝廷を牛耳り始めます。いわゆる「院政」の始まりです。白河院は息子・孫(鳥羽天皇)・曾孫(崇徳天皇)の3代にわたって院政を引き、なくなります。この際、崇徳天皇は鳥羽天皇の実の息子ではなく白河院の息子であるという噂がまことしやかにささやかれ、(息子の嫁ならイザ知らず、孫の嫁に手を出す白河院!バケモンか、あんた)その噂を鳥羽天皇も信じていた模様で、元々崇徳帝を嫌っており、崇徳帝への譲位もいやいやだったそうです。そういう背景があったため、白河院没後に鳥羽院が院政を引く段になると、露骨に崇徳帝を排除するようになります。まず弟(鳥羽院にすれば、実の息子)への譲位を強行し(近衛天皇)、近衛天皇が没すると「遊び人でやる気もなく、どうしようもなく皇位継承するに値しない」とまで評された雅仁親王(崇徳院の弟・これまた鳥羽院にすれば、実の息子)を天皇にします。これが後白河天皇の誕生です。

この譲位により、自分の息子に皇位を継がせる可能性が非常に低くなったことに崇徳院は危機感を覚えます。さらに藤原摂関家の氏長者争い(兄・関白忠通と弟・左大臣頼長)も加わり、宮廷内に不穏な空気が立ち込めます。この争いを勝利に導くため、崇徳院側・後白河天皇側ともに兵を集めます。が、それは自前の兵ではなく、自分に協力してくれる武士の兵力でありました。そう、武士団の兵力です。ここで注目いただきたいのは日本の最高権力の争いのキャスティングボードを握ったのがいままで権力者(皇族・貴族など)からしてみたらゴミのような存在だった武士であったという点です。そして鳥羽院がなくなられるとこの対立は一気に武力闘争へと発展します。1156年、保元の乱の勃発です。

結果はご存知の通り崇徳院側の敗北・後白河天皇側の勝利に終わります。そして崇徳院側に付いた者たちへの処分が下ります。ここで都人に衝撃を与えたのは2点。一点目は都で武力衝突が起こったこと自体。もう一つは薬子の変以来350年ぶりに死刑が復活した点です。皇族・貴族が絡んだ権力闘争は数多あれど、いままでなら島流しですんでいたものが、「武家の習い」にしたがった事後処理がなされたのです。鎌倉時代の歴史書「愚管抄」では、この2点から保元の乱が「武家ノ世」の始まりであったと評しています。

愚管抄の評したとおり、日本の中心で武士の力をまざまざと見せ付けたものですから、武士のステータスが上がらないわけはありません。保元の乱の3年後の平治の乱を経て、ついには摂関家や院政をも上回る権力を手中に収める武家も誕生します。そう、平家です。・・・といったところで今日はこれまで。次回以降本題の(じゃあ今までのはなんだったの?)源平合戦から鎌倉幕府誕生に入ります。乞うご期待!

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2006年5月 3日 (水)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その③

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

世はゴールデンウィーク真っ最中ですが、そんなことは関係なく行きますよ~。

墾田永年私財法をきっかけとした「開墾ブーム」に乗り、未開の地の多い辺境地域(=都から遠い地域)に多数発生した自営農民が自衛のため(そもそも官製の警察権力がないのが問題ですが)武装し、「武士団」が生まれます。その武士団同士でのイザコザ(平将門の乱・平忠常の乱)や朝廷の異民族政策に対する異議申し立て(前九年役)、または地方豪族の内輪もめ(後三年の役)をきっかけに発生した朝廷に対する反乱に対して、官僚機構を牛耳る貴族に公金で私服を肥やされた結果やせ細った大和朝廷官僚機構は自前で軍隊を送ることも出来ず、有力な武士団を官軍司令官に任命して鎮圧させるという手段に出ざるを得ませんでした。

また、徴税に関しても自前で徴税官を派遣して税を取り立てることも出来ず(大貴族・有名寺社の墾田には「不輸・不入」ですし)、国司に徴税権を丸投げして徴税してもらう羽目に堕しました。(結果、国司のポストが利権となりました。国家の名の下に税を徴収できるのですから、国に収める以上の取立ては即自分の実入りになりますし)

国家運営の基本である徴税権・警察権の執行を自前で出来なくなるほど弱体化した大和朝廷。それに対して「独立自衛武装農民」=武士団が徴税・警察の実務を担うにいたります。しかし朝廷は「大義名分」と「官職」によって武士団を操ることでまだ日本を支配することが出来ておりました。が、実務を担う武士にこんな疑問が沸いてきます。

「俺たちが実際汗と血を流して仕事をしてるのに、何で貴族連中はあんなに俺たちを見下すのか?」

「何でご先祖様が切り開き、俺たちが耕している土地のアガリを、何も働かずにブクブク太る都の貴族連中に吸い取られないといけないのか?」

こんな疑問を抱きながらも、実務執行能力をますます高めてゆく武士団。その力を都の貴族連中に思い知らせる機会がやってきます。といったところで以下次号!お楽しみに!!

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2006年5月 2日 (火)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その②

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

さて、743(天平15)年の「墾田永年私財法」により、開墾ブームが起こったと書きましたが、一点補足。都から近い地域では貴族・寺社による大規模な開墾が行われ、多数の貴族(主に藤原氏)・寺社の墾田が開発されました。そのような貴族・寺社の直営田では、租税や官憲の立ち入りを拒否する「不輸・不入」の特権が与えられていました(まあ、朝廷を牛耳っている連中ですのでそういった特権を得るのはカンタンといえばカンタンですが)

一方都から遠い地域では中小規模の墾田が開発されましたが、当然といえば当然ですが墾田は自分のものになるものの相変わらず租税は課せられますし、警察機構が未発達なので土地・水利をめぐる争いが頻発するようになります。その結果以下の2点において墾田経営者は不満を抱くようになります。

①せっかく汗水たらして開発したのにむざむざ税を持っていかれるのはイヤ

②隣近所・国衙からのチョッカイに対して所領を守ってくれるものがない!

①に関しては解決策として、大貴族・寺社に「名義貸し」を行い、彼らの墾田の持つ「不輸・不入」の特権をいただくという行動に出ます。これがいわゆる「荘園」となります。名義はタダでは貸してくれませんのである程度の「名義貸し料」を支払うことになりますが、それでも税を持っていかれるよりはマシだったようです。

結果、租税のアップを期待しての「墾田永年私財法」により、墾田は増えたものの租税はアップせず、変わりに貴族や寺社のポケットマネーを増やすといった結果になりました。法人税収入を期待して1円起業できるように会社法を改正し、起業ブームにより企業数は増えたたものの、お役人への賄賂により脱税する企業が続出して国庫はやせ、お役人の懐が肥えるといった感じでしょうか。

②に関しては、守ってくれるものが誰もいないので、やむを得ず自衛のために武装をするといった結果になります。これが武士および武士団の誕生につながります。いわば、武士団は「独立自衛武装農民集団」ともいえます。なにせ徴税権を与えられた国衙(朝廷に任命された国府の役人)までもが収奪に来るのですから。このような「独立自衛武装農民集団」のイザコザが、とくに都から遠く離れた地域で頻発します。そのイザコザの代表例が「平将門の乱」(939-940年)です。もっともこの乱では行きがかり上「朝廷からの独立」を宣言してしまったために朝廷の威光を受けた武士団の頭目=平国香および藤原秀郷(奥州藤原氏の祖先)により鎮圧されてしまいましたが。

摂関家の全盛期に向かい、ごくごく少数の「勝ち組」貴族・寺社とその他大勢という超格差社会=平安時代において、独立自衛武装農民=武士なんて貴族から見れば塵芥のような存在でしかアリマセンでした。しかし、額に汗して働くものが歴史の表舞台に出るのはもうすぐだったりしつつ以下次号!でございます。

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2006年5月 1日 (月)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その①

おはようございます。

これまたずいぶんご無沙汰してしまいました。春の陽気と眠気にどうにも勝てないワタクシでございます・・・

と、今日から少し心を入れ替え、早起き&ブログ執筆を再開いたします。ヨロシクお付き合いのほどを・・・(とか言ってまた起きられなくなったらどうしよう・・・)

さて、本日のタイトル「日本通史」ですが、歴史をつながりのある連続体ものとして眺めると結構面白くなるものですから、ヤマサンなりの歴史の見方をご披露いたすものです。異論・反論・ツッコミは歓迎いたしますので、時間と余力のある方は、是非。

「ムシゴメで祝う大化の改新」という語呂合わせで覚えた方も多いのではないでしょうか。645年にいわゆる大化の改新が決行されます。これにより当時最大勢力であった蘇我氏の本流が誅され、翌年一月に「改新の詔」が発せられます。

そこで一番のポイントは公地公民制~土地と人民を天皇=朝廷が独占する、と言う点です。ある意味私有財産を禁止することでもありますので、労働意欲は低下、耕作を放棄するものが続出いたします。当然税収も低下しますので、困った朝廷は723(養老7)年に自力で開墾した土地について、自分から孫の代までの土地の所有を認めた「三世一身の法」を公布します。

それまでの土地私有禁止から大きく方向転換したものの、所詮は孫の代になったら土地を返さなくてはいけないので、あまり効果があったとは言えませんでした。そこで743(天平15)年、開拓した土地に関しては子々孫々私有を認める「墾田永年私財法」が施行されます。これにより開墾ブームがおこり、特に未開の土地の多い辺境地(都から遠い地域)において「一山当ててやろう」という意欲を持った人たちがワンサカと開墾に赴くことになりました。(起業ブームみたいなものですな)

ワンサカと開墾ブームに乗って開墾する人が増えたはいいのですが、トラブルも多発するようになります。というところで以下次号。ちなみにこのシリーズは何回続くかは、私にも分かりません・・・

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