2006年8月14日 (月)

日本人が「自虐的」になるのは必然!なんだけど・・・

いやあ、この時期になると戦争について、近年は「戦争責任」「合祀の是非」といったこともTVの話題に上ることが多いですね。

この間爆笑問題の太田光がとあるTVで言っていたことですが、私もハタとひざを打ちました。

「日本人が自虐的になるのは仕方がない。だっていままで正しいと思っていたことが間違いだった、ってなったんだから」

自虐とは自己否定です。「俺は間違っている」と言う考えがそのベースになっています。そりゃそうです。自分は正しい、と思っている人は自虐的にはなりません。少なくとも「自分は間違いだ」というパーセントの多い人が自虐的になります。

ということを鑑みると、1945年8月15日以降今まで抱いてきた信念を「間違い」と思わざるを得なかった日本人は総じて自虐的にならざるを得なかった、といえましょう。

だから「自虐史観」がどうのこうのといって「自虐的」な歴史観を持つ人を非難する気に離れません。まだ60年前に受けた心の傷から立ち直れていない人なのですから。

でも、もうそろそろ立ち直ってもいいんじゃないかなぁ、とも思うんです、ワタクシ。

冷静な目で眺めてみると、この世はまだまだ道理が通らず、力が全てのパワーポリティクスが支配しているんだなぁ、と言うことが分かってしまうのですが・・・

まあ、これもやむなし、と思います。我々は聖人君子の集まりではないのですから!

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2006年8月10日 (木)

原爆は自然災害じゃない!

どうも、久しぶりの更新になりました。

なんだか精神的に疲れていまして・・・ということろで(どういうところで?)今回は硬い話題をば。

昨日は長崎の原爆忌、その3日前は広島の原爆忌でしたね。

このごろになってやっと自覚できてきたのですが、この原爆とか戦争中の各都市の爆撃って自然災害じゃなかったのですね。

「ん~なこたぁあたりまえだろ。なに寝ぼけたこと言ってんだ!」とお怒りの貴兄もいらっしゃることでしょうが、ワタクシの実感としては今まで受けてきた教育や世論的なことからみると、どうも我々は原爆や都市への無差別爆撃をあたかも自然災害のように捉えていたのではないでしょうか。

それが証拠に、人為的に起こされた爆撃の主犯である米軍・米国を責めたり、その責任を追及したりといったことは一切なされてこなかったし、今もってされてないですよね。

もし貴方の家族が残酷な手段で隣のオッサンに殺されたら・・・確実にそのオッサンを憎みますし責めますよね?

まかり間違っても「狂犬に咬まれたようなものだから」とあきらめたり、「自分にも悪いところがあったのでは?」と反省したりはしませんよね?

広島の平和公園にある「安らかにお眠りください 過ちは二度と犯しませんから」という碑文のおかしさに気付いたもの、上記の文脈においてです。国際法上戦闘行為は非武装民に大してはそもそも認められていませんし、仮に戦闘員相手であったとしても「不必要な苦痛を与える兵器の使用」はハーグ陸戦条約(1907年締結)によって禁止されています。「過ち」を犯したのは・・・間違いなく米軍でありアメリカでしょう?

戦争の悲惨さ・おろかさを後世に伝えるのも大切でしょう。しかし、その前に明らかな国際法違反である「無差別爆撃」と「原爆の使用」に対してアメリカに謝罪させることでケリを付けるということも大事なのではないでしょうか。

ここをあいまいにするといつまでたっても「属国」のままですよ。

不思議なことに「自虐史観がドータラ」と言う人でもここに触れる人っていないんじゃないですか?

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2006年7月14日 (金)

ヤマサンの日本通史PartⅡ~産業革命から幕末維新・その⑥

おはようございます。(今日の起床時間=4:30)

いやぁ、PCの故障(マウスが機能しなくなりました)やら生保業界の7月の忙しさやらにかまけて約1ヶ月間を空けてしまいました。スンマセン。今日からまたボチボチ再開しますのでよろしくお付き合いのほどを・・・・

さて、前回のおさらいですが、明治維新の本質は天誅と言う名のテロでも大政奉還でも王政復古の大号令でも戊辰戦争でもなく・・・廃藩置県です。

そもそも開国以来の日本の目標は「ヤクザな外国に食い物にされない」でした。その方法論として統一軍を持つために300弱の藩を1つの国家に統合する「倒幕派」が勝利したのです。よって1871年に実施された廃藩置県こそが維新のコアとも言うべき出来事でした。

しかしこの「廃藩置県」、藩と言う地方公共団体を一律廃止し、そこに努めるお役人=武士を大量に失業させるという側面も持っています。また、武士はその名の如く武力を持っています。さらに、倒幕の主体になったいわゆる薩長土肥の武士は倒幕の戦で近代兵器をもち近代軍隊の訓練を積み、その上で近代戦を戦った経験を持っています。となると、「失業反対!!」という抗議行動を武装蜂起と言う形で起こしてもちっとも不思議ではなかったのですが・・・ほとんど起こりませんでした。(旧薩長土肥の士族は萩の乱・佐賀の乱等起こしましたが)ワタクシはこれを「武士による・武士のためにならない・武士を消滅させる革命」だと考えております。

士農工商という特権階級にあった者が自らの特権を廃止したのですから究極の自己犠牲ともいえると思います。実際イギリスの外交官は「このようなことをヨーロッパで行おうとしたら何千何万の命と何十年という時を必要とするであろう」といったといいます。それをほぼ無血でなしとげた明治日本・・・凄い、と思いませんか?

外国の脅威に対抗するために小国家連邦を統一国家に纏め上げる。明治維新はまさにこれだとおもいますが、実はこれは今回が初めてではアリマセン。と言うところで今日はここまで。次回は「1200年前にも体験済み!」をお送りします。

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2006年6月16日 (金)

ヤマサンの日本通史PartⅡ~産業革命から幕末維新・その⑤

おはようございます。(今日の起床時間=5:05)

アヘン戦争は確かに日本人に衝撃を与えました。しかしその情報が伝わったのはごくわずかの人間にとどまり(まあ、そですわな)圧倒的大多数の日本人は相変わらず天下泰平のノホホン生活を送っておりました。が、しかし。

とうとう正しい国際認識=「デンジャラスな帝国主義の世の中がすぐそこまで来ている」事を津々浦々に知らしめる事件が勃発いたします。

1853年、4艘の軍艦で乗りつけたアメリカ東インド艦隊のマシュー・ペリー提督は「ワシらに商売をさせろ」という要求を突きつけ、江戸湾で空砲をぶっ放したり勝手に測量をやって言ったりとやりたい放題をしていって帰りました。翌年再びやってきて強引に「日米和親条約」を締結、下田と函館を開港させます。ここに鎖国体制が終焉いたしました。

外交交渉をしにくるのに軍艦で乗りつける。まあ、鎖国中の日本はここまでしなければ話を聞かずにぶっ放してきたに違いないのでいたし方なしかもしれませんが・・・乱暴な話ですなぁ。当時の錦絵をみると人々の恐怖心が良くわかります。「帝国主義」の本質=暴力を背景にした経済活動の恐ろしさが大衆レベルに知れ渡った瞬間でもありました。

幕末維新はここから出発するともいえますが、立場は違えど共通のゴールが設定されました。それは「ヤクザな外国(列強諸国)に食い荒らされたくない!」でした。そのための方法論として当初2派に分かれました。

・とにかく野蛮な外国を従来通り立ち入り禁止にする。やってくる外国船は武力で排除!派

・怒らせると怖いのでとりあえず外国とよしみを結び、敵対するのは避けよう!派

前者を「攘夷論者」、後者を「開国論者」と呼びますが、あくまで違うのは方法論であり、ゴールは共通であったというのがワタクシの解釈でございます。

やがて「攘夷論者」も世界の現実をまざまざと見せ付けられます。世界中を荒らしまわっているヤクザなだけあってその武力も半端じゃない。250年間戦争もなしにノホホンとしてきた日本人が太刀打ちできる相手ではなかったのです。(長州←下関戦争 薩摩←薩英戦争)

そこで「攘夷論者」も必然的に「開国論者」に鞍替えすることを余儀なくされるのですが、その開国論にも2つの方法論が存在しました。

・今までの政治形態=幕藩体制を維持したまま外国の軍事技術を導入し、食い荒らされないための軍事力を持とうとする「護送船団方式維持派=佐幕派」

・300弱の地方自治体を吸収合併し、統一国家を作りその下で統一軍を持ち、その上で食い荒らされないための軍事力を持とうとする「M&A派=倒幕派」

言うまでもなく江戸幕府の体制は300弱の藩からなる「幕藩体制」です。いわば300弱の独立国の連合体とも言うべきものでありました。独立国ですから軍隊もそれぞれが持つものであり、統一の「日本軍」と言うべきものは存在しませんでしたし存在する必要がありませんでした。むしろ「存在させたくなかった」のです。邪魔だから。

しかし事態が事態となりました。300年前のノホホン国際情勢とはさすがに変化し、いつ食われるかわからないデンジャラスな国際情勢となってしまいました。侵略を受けたとしてもそれを裁いてくれるものは存在しませんし(鎌倉幕府以前の武士団の状況みたいですな)侵略の意志と能力を持った外国はすぐそこまでやってきています。

そんな中で土地・人民がばらばらな小国家=藩と言う単位でまとまっている状態というのは侵略しようとする側から見ればとても好都合でした。一つ一つ個別撃破していけばよいのですから。

ヤクザな外国とタメを張るためには統一の軍隊が必要で、統一軍を持つためには「統一国家」が必要なのは冷静に考えれば分かることです。しかし、当事者にとって今まで続いてきた慣習を脱するということはそれ自体大変なことですし、頑強な心理的抵抗感が立ちはだかります。ので、「保守的な改革派=佐幕派」と「過激な改革派=倒幕派」の間で激しい摩擦が繰り広げられました。幸運なことに時代の流れに沿った「倒幕派」が勝利してくれました。

自由競争の時代には護送船団方式から脱却し規制を緩和、競争力のある企業を生み出すことが是とされます。その過程で競争力を高めるための方法としてM&Aがあります。まさしく幕末維新とは「日本を丸ごとM&Aして「大日本帝国株式会社」を設立したようなもの」というのがワタクシの解釈でございます。ですから、維新の本質とは新撰組が活躍した「天誅」と言う名のテロでもなければ大政奉還・王政復古の大号令でもなければ戊辰戦争でもないと思います。それは・・・次回をお楽しみに!

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2006年6月14日 (水)

ヤマサンの日本通史PartⅡ~産業革命から幕末維新・その④

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

アヘン戦争という大義の全くない戦が行われた1840-42年、日本では老中水野忠邦による天保の改革が行われている時世でした。

アヘン戦争の情報はオランダ商館長=カピタンの手によって幕閣にもたらされ、衝撃を与えます。清国といえば当時の日本人にとっては世界最大最強の国であり、その清国がクソ田舎の英吉利に完敗、しかもアヘンの取り締まりに逆切れして仕掛けられた戦争での完敗と言う事態は想像もできなかったことでしょう。

いままで異国(朝鮮・清国・オランダ除く)に対してはやってきたら二念なく打ち払えという態度で来たのが、話の通じない凶暴な輩がいるという事態を考慮し、「薪水給与令」を発して「燃料・水・食料の積み込みは認め、補給が終ったら穏便に帰っていただく」という風に方向転換しました。(但し原則通交禁止は変わらず)

同時に、水野は韮山代官の江川英龍に西洋流の砲術を修めるよう命じます。この江川英龍という人は何気に凄い人で、かの佐久間象山の師匠にも当たる人ですし、当時世界最高峰の軍事技術である「炸裂砲」をほぼ独力で開発し、また有名なところでは領土の韮山に反射炉を作ったりもしています。(彼についてはいずれ書きたいと思います。)

また、この時期日本沿岸にロシア・イギリスの船がたびたび通商を求めて来航するという事態が発生し、幕府上層部は海防への危機意識を高めます。そこで海岸警備を名目に沿岸地に所領を持つ大名・旗本の領土を内陸部の土地と交換するという「上知令」を計画します。これに大名・旗本は大反対。ついには水野忠邦が辞職に追い込まれることとなりました。

国際情勢の変化により(幕閣の一部ですが)緊張が高まり、外交内政に変化が現れ始めます。こういった状況下でいよいよペリーがやってきます。と言うところで今日はここまで。次回は「いよいよスタート日本改革~護送船団か、M&Aか?」をお送りします。お楽しみに!

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2006年6月13日 (火)

ヤマサンの日本通史PartⅡ~産業革命から幕末維新・その③

おはよございます。(今日の起床時間=5:05)

W杯、初戦負けちゃいましたね。うーん・・・

と言うこととは全く関係なく久しぶりに続きいきますよ~

さて、中国での木綿販売が「南京木綿」と言う競合商品のためうまくいかず、お茶ブームのため輸入超過となり貿易赤字を計上するにいたった大英帝国。貿易赤字解消のために取った「禁じ手」とは・・・皆様察しは着いていると思いますが、阿片の密輸でした。

売れるものがないからってヤクの密輸に走るなんて某「ならず者国家」みたいですが、それを世界に冠たる大英帝国がやってのけているから恐ろしい。銭のためなら悪魔に魂を売り渡すこともいとわない一例といえましょう。恐るべし、帝国主義。

清朝側は取り締まりに入ります。林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命し阿片の取り締まりを強化します。

当然です。

林則徐はアヘン密売商に対して「今後アヘンを持ち込みません」という誓約書を提出するよう迫り、提出しない船には貿易の許可を出さないという措置に出ます。

当たり前の行為です。

が、その禁輸措置に逆切れしたイギリスが真っ当な取締りを行ってきた清朝に対して戦争を開始し、圧倒的な火力を背景に清軍を撃破してゆきます。そして、香港島の割譲・上海等の開港・多額の賠償金・関税自主権の放棄という条件を飲ませることに成功します。

もう、なんだかなぁって感じてす。どう見ても「義」は清朝側にありますが、力がなければ自国民を廃人にされても抗議もできず、反対に領土やお金をむしられるという結果に終る・・・今日でもそうなのかもしれませんが、あんまりにも厳しい国際社会の現実がそこにありました。

ところが、そこまでひどいことをされたにもかかわらず当の清朝で「これはやばい!」と言う危機意識を持った人間は余りいなかったようです。これまでの「夷狄」の侵略(匈奴などの周辺民族の侵略)と同等に捉えていた模様です。図体がでかすぎると神経が鈍くなるのでしょうか。(恐竜みたいですね)

しかし、200年余の「大護送船団方式」で競争もなくのほほんとしてきた日本には強烈な危機意識を与えました。と言うとところで今日はここまで。次回は「大江戸サバイバル大作戦」をお送りします。お楽しみに!

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2006年6月 9日 (金)

ヤマサンの日本通史PartⅡ~産業革命から幕末維新・その②

おはようございます。(今日の起床時間=5:10)

昨日は朝起きて更新しようとしたら「メンテナンス中」とかで書き込むことが出来ませんでした。ということで(?)今日は張り切っていきますよー。

さて、国家の軍事力という「暴力」を利用して機械で大量生産した木綿を世界中に売りまくってきた大英帝国。東へ東へ販売地域を増やしていってついには極東・中国に到達いたしました。

当時の中国は清朝の治世。日本と同様鎖国中であり当初はイギリスの求める「自由な」通商自体なかなか認められませんでした。しかし徐々に南方の沿岸部での通商が認めらられ、張り切って木綿を売ろうとしましたが・・・・思ったほど売れません。これは一体??

実は中国では「南京木綿」という安くて質の良い木綿が伝統的に売られており、イギリス製の木綿の前に強力な競合商品として立ちはだかっていたのです。

ここまで連戦連勝できたイギリスはここであせってしまいます。さらに、本国での紅茶ブームで中国からのお茶の輸入が急増。儲けに行くつもりが反対に赤字を出すこととなってしまいました。何とかしなくては・・・!!!

事ここにいたって大英帝国は「禁じ手」をきってしまいます。このことはワタクシにとって「帝国主義」の本質をよーく教えてくれました。と言うところで今日はここまで。次回は「力なき正義は無力なり!」をお送りします。お楽しみに!

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2006年6月 7日 (水)

ヤマサンの日本通史PartⅡ~産業革命から幕末維新・その①

おはようございます。(今日の起床時間=5:05)

さて、時を150年、場所を5000kmほど移動しまして18世紀のイギリスでございます。炭鉱採掘の際に出てくる湧き水の排水ポンプ用に開発された蒸気機関。これが様々な応用を見せ始めます。中でも機械を動かす動力源として紡績機械に、船を動かす動力源として蒸気船に応用され、木綿の生産力と物資の運送力を飛躍的に高めました。

また、この時期イギリスの主要産物にも異変がありました。それまでは羊毛・毛織物がメインの産物でしたが、この時期から木綿・コットンが主要な産物となりました。肌触りがよく通気性・保温性にたけ、文化の違いはあれどどこでも必要かつ売れる商品として大変重要でありました。これを世界中に売りまくっていたのです。木綿を世界中に売るために、その原材料である綿花を大量に格安に仕入れ、また売りつけるための有利な市場を得るという「一粒で二度おいしい」思いをするために軍隊を派遣して「植民地」を獲得していったのです。このように軍隊の力を背景に商売をすることを「帝国主義」といいます。ヤクザですなぁ。

イギリスの「帝国主義」はアフリカを皮切りにインド・ビルマと東進し、ついには中国(当時の清朝)にまで到達いたします。(インドではコットンを売りやすくするために競合相手潰しの一環として地元の紡績職人の腕の腱を切るといったことまでやっています)ところがそこで予想外の事態が立ちふさがりました。というところで今日はここまで。明日は「コットン商戦 in 南京~あっと驚く奥の手とは?」をお送りします。お楽しみに!

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2006年6月 6日 (火)

ヤマサンの日本通史PartⅡ~産業革命から幕末維新・序章

おはようございます。(今日の起床時間=5;00)

またまた更新に間が空いてしまいました。一重に起きれなかっただけです・・・スンマセン。

と言うわけで今日から心を入れ替えていきますので皆様宜しくお付き合いのほどを。

さて、前回全11回の長期シリーズとなりました「ヤマサンの日本通史」で味をしめ(単に書いてて自分が楽しかった、というだけですが・・・)今日からPart2として産業革命から幕末維新という「日本史と世界史のリンク」について書いていきます。これは何回まで続くかはまたまたワタクシにも分かりません・・・

時は1600年。天下分け目の関が原が東軍の勝利に終り、次いで大阪冬の陣-夏の陣(1614-15)で豊臣家を滅ぼし、幕藩体制を確立させました。「幕藩体制を確立」させた意義としては「自由競争の否定・大護送船団方式体制の出発」であると考えています。

100年以上にわたって続いた戦国の世。多くの武将が起業し、近隣の同業者とシェア争いを繰り返し、ついに「トップシェアの獲得=天下統一」を狙う者が現れ、徳川家康が最終的にトップシェアを獲得しました。その過程で戦が行われてきましたが、戦とは武士にとって「ボーナスと昇給を賭けた経済行為」でありまして、いかに多くの首を取ってくるかで査定され、所領というボーナスをいただいていたのです。

しかし、この経済行為は必ず流血を伴うのが難点でした。(当たり前ですけど)自由競争で経済が活性化するのはいいのですがその背景には踏み荒らされた土地の持ち主・徴用されて戦場で死んでしまった農民といった影が色濃く落ちていました。そんな状態が100年も続くと、集合的無意識レベルで競争に「飽きて」しまったのでしょう。徳川家康に自由競争社会を終焉させ、300弱の中小企業=藩が自分のシェアを守ることのみを義務付け、その代わり企業の存在は幕府権力で保護してあげるという体制が出来上がりました。また、競争を活性化させる・刺激する可能性の高い外国との通商・交通も禁止してしまいます。

以降300年近くこの大護送船団方式は安穏と続いていくことになりますが・・・次回は150年ほど下ったイギリスに舞台を移します。お楽しみに!(っていうか、書いてる本人が一番楽しんでいたりする)

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2006年5月30日 (火)

「大楠公」はなんで標準語なんや?おかしいけんけ

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

気がつけば一週間以上更新していませんでした・・・ひとえに疲れで起きれなくなっていたためです。スンマセン。

さて、今日のお題は「言葉って大事」です。

そもそもこのことを意識するきっかけとなったのは映画「ラストエンペラー」です。その冒頭で西太后が英語で「Black Pearl・・・」といっていたのを聞いて、チョー違和感を感じました。

「中国人が、しかも洋物嫌いの西太后が英語なんか話すわけないやろ!」

たしかにハリウッド資本による映画で基本的にアメリカ人向けの映画なので、お客さんのことを考えると英語で台詞を作ったのでしょうが・・・リアリティと言う面で大いに問題だと思いました。だって、ありえないでしょ??また、坂本龍一演じる甘粕正彦も英語を話しておりました・・・もう、なんだかなぁ、って感じでした。

あんまりにも、他国の文化・言語に対する敬意というか配慮がなさ過ぎる、と思いました。

その点日本映画はキチンとしています。外国人の役ではその国の言葉をしゃべらせていますし、方言もキチンとしゃべらせているほうだと思います。

しかし、映画・TV・小説や漫画の世界で取り上げられる歴史上の人物で、これはないんじゃないの?という扱いを受けている人がいます。表題であげている「大楠公」楠正成です。

彼はどこから見てもコテコテの河内のオッサンです。生まれも育ちもそうですし、特に後半生の「負けると分かっていても後醍醐帝の命に従って戦う」姿は浪花節そのものです。にもかかわらず、彼の台詞が河内弁・大阪弁である場合は滅多にない、全くないのはどういうことでしょうか???

「大楠公」の実際の台詞を想像すると、結構イメージが変わると思うのですが・・・いかがでしょう?

でも、この考えで行くと京生まれ・京育ちの源頼朝は京言葉を話していないと変、ってことになりますね。

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2006年5月17日 (水)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑪

おはようございます。(今日の起床時間=5:30)

1199年、頼朝が謎の死(武将が落馬?にわかには信じ難い)をとげて以降、発足したばかりの幕府はごたつきます。後を継いだ頼家は典型的な「ダメ2代目」で、御家人にも愛想を付かされついには祖父の北条時政により暗殺されてしまいます。さらにその後を継いだ実朝は歌人としてはつとに有能でしたが武家の長としての統率力に欠け、頼家の遺児公暁により暗殺されてしまいます。

このごたつきを京からじっと眺めていた後鳥羽上皇。かねてから鎌倉武家政権を快く思っていなかった彼はこの「ごたつき」で鎌倉政権における武士の結束力が弱まったと判断します。そしてこの機に乗じて鎌倉幕府の実質的なトップである2代執権・北条義時の追討令を発します。

鎌倉に動揺が走ります。院自らが追討令を出し、自らの出馬するという事態に、「朝敵」になりたくないという心理が働き鎌倉に着くか院につくか、多くの武士が迷いました。まだまだ朝廷の権威は大きく、正面切って院の命令に逆らうことには非常に大きな心理的抵抗があったようです。

「朝敵」として追討の対象となった鎌倉政権。この大ピンチに「尼御台」北条政子が立ち上がります。

「お前たち良く聞きなさい。亡き頼朝公が与えてくださった恩を思い出しなさい。お前たちの所領を認め、保障してくださったではないですか。この恩は海よりも深いものです。この恩を思っても朝敵になりたくないというのであれば仕方がない。京側に着きなさい。でも頼朝公の恩に報いようとするのであれば、いますぐ院をたぶらかす近臣共を討ち滅ぼすのです」

この演説に武士の動揺は収まり、結束を取り戻した鎌倉軍は上皇軍を圧倒します(1221年承久の乱)

ここで注目していただきたいのは「頼朝公の恩」と言う点です。武士が最も欲しかった「所領の保障」を与え、その代わりに忠誠を引き出すバーター取引のシステム「御恩と奉公」。このシステムがこのピンチに最大限機能いたしました。「朝敵」になるのは当時の人間にとっては我々が想像できないほどの心理的抵抗があったことでしょう。(戦時中に「非国民」呼ばわりされるようなものでしょうか?)この抵抗感をも押さえつけ、鎌倉への忠誠を引き出すだけのパワーが「所領の保障」にはあったということです。ここに着目し権力の基盤を構築した頼朝は正直凄いと思います。

承久の変は明らかに当時の人々に価値観の変化をもたらします。それまでは天皇・上皇の意向は絶対で「神聖ニシテ侵スベカラズ」であったのが「無体な命令には従わなくても良い・異議申し立ても可能なのだ」となりました。天皇・上皇無謬説が否定されたともいえるでしょう。実際承久の乱の事後処理で武士が上皇を処断してしまいました。これは革命とも言っていいことでした。「下克上」という言葉がありますが、いわば「超下克上」です。天皇・上皇からみれば下座も下座の武士が上皇を処罰し貴族の所領を没収してしまったのですから。

どうしても義経の敵役ということで人気薄ということもあり、また一門に冷淡な処遇をしたことで「冷酷な独裁者」というイメージで語られることの多い頼朝ですが、ワタクシはもっと評価しても良いと思います。確かに源氏直系の血族はたった3代で途絶えてしまいますが、彼の構築した幕府は150年、武家政権と言う意味では680年存続しました。その基盤を構築したことは非常に大きいと思うのです。いままで権力の担い手とはみなされなかった武士を糾合し今までになかった権力基盤を創出した手腕。大したものだと思いませんか?

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2006年5月16日 (火)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑩

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

さて、時間を少しさかのぼります。1185年、頼朝へ反旗を翻した義経は後白河法皇に迫って頼朝追討の院宣を出させます。が、「朝敵」となったにもかかわらず頼朝打倒の兵は集まらず、クーデターは失敗に終わります。頼朝はこの機会を捉え、朝廷に「義経追討のため」あることを認めるよう強要します。「守護・地頭の任命権」です。これにより、頼朝が家人に軍事・警察権(守護)および土地の管理権(地頭)を与えることが公的に認められました。

このシリーズでも何回も書いたように、武士が一番欲しかったのは「土地所有権の保障」です。これを「地頭職の補任」と言う形で具現化したのが地頭職の補任権です。鎌倉から「地頭」に補任されることで所領が鎌倉から公認されます。万一「公認」された土地を侵略するものがあれば、それはすなわち鎌倉への反抗となり、最大30万騎の動員力を誇る鎌倉政権を敵に回すことになります。これは土地の侵略にたいしては大きな抑止力となりました。ので、鎌倉からの地頭職への補任は「土地所有権の保障」と言う面では大変大きな効果をもたらしました。

この「土地所有権の保障」を「御恩」として与え、それと引き換えに鎌倉に忠誠を誓わせ、命令に従わせるという「ギブアンドテイク」の関係を「御恩と奉公」といいます。当たり前のように歴史の授業で習いましたが、結構画期的なことだとワタクシは考えます。いままで武士に対しては基本的に権力者は「ギブ」などしてこなかったわけですから。(たまに官位を与えて名誉欲を満たすくらい)実質的な「ギブ」を、武士が一番必要としていたもので行うシステムを構築した頼朝は、大変見る目があったとワタクシは評価しております。

義経が討たれ、藤原氏を攻め滅ぼした翌年(1190年)上洛します。そこで大納言への就任を求められますが断ります。しかしその後権大納言への就任を「強要」され、また武士としての最高の官位である近衛大将にも任命されます。しぶしぶ一旦受けますがすぐに辞任、鎌倉に帰ってしまいます。この上洛で以前から求めていた「征夷大将軍」への任命が果たせなかったためです。この「征夷大将軍」という位は、元々辺境の異民族(夷)が反乱を起こした際に設置される臨時の職で、軍を自由に召集・動員でき、兵糧の徴収・裁判権の行使など広範囲の行政権を認められ、かつ都にいなくて良い立場であるので頼朝の目指す武士政権の長としては都合の良い官職でありました。しかしそこは「大天狗」とまでよばれた後白河法皇、頼朝の目論見はちゃんと分かっていました。ので、征夷大将軍の任命はかたくなにNOを出し続けていたのです。公的なフリーハンドを与えるわけにないかなかったのです。

しかし、後白河法皇が亡くなるともはや朝廷には頼朝からの圧力を跳ね返すだけの力もなく、ついに征夷大将軍への任命がなされます。これが「イイクニ作ろう鎌倉幕府」1192年のことです。ここにいたって名実ともに「朝廷に対抗しうる武士の・武士による・武士のための政権」が一応完成いたします。

土地の所有権を保障し、代わりに忠誠を誓わせ命令に服させる。この「御恩と奉公」システムが最大限機能するのは、実は頼朝が死んだ後であります。と言うところで今日はここまで。明日はいよいよ最終回「御恩は朝敵に勝るか?」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月12日 (金)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑨

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

昨日はどうしても早く出社する必要があり、1回更新をスキップさせていただきました。で、気持ちを新たに行きますよ~。

奥州で藤原泰衡が義経を討ったという知らせを聞き、頼朝は全国津々浦々に大動員令を発します。それは薩摩の島津荘にまでおよび、総勢28万4千騎が鎌倉に集結しました。これを3手に分け奥州へと進軍を開始。自らも総大将として北上を開始しました。

途中阿津賀志山で交戦した以外は戦闘らしい戦闘もなく、阿津賀志山の敗戦後平泉を焼いて逃亡した泰衡が逃亡中に部下に首を討たれた時点で戦争は終結した、はずでした。

ところが頼朝は平泉で軍を止めることなくさらに北上します。そして、かつて前九年の役での最終決着の地、厨川に全軍を集結させます。

頼朝からさかのぼること五代。源氏の棟梁頼義は陸奥守として俘囚の長・安倍頼良・貞任の反乱の鎮圧に当たりましたが、12年がかりでも鎮圧できず、最終的に出羽の俘囚の長・清原氏の軍事力をもってやっと鎮圧できました(前九年の役)結果、乱後の奥州の権益は清原氏が全て手にすることになり、12年かけて血と汗を流した源氏の棟梁頼義はいわば「働き損」になってしまいました。以降奥州制圧は源氏累代の悲願でありました。(後三年の役でもまたもや「働き損」になりましたし)

その「故事」を踏まえ、厨川に全軍集結させた頼朝は、部下に討ち取られた泰衡の首を釘で打ちつけ、かつて前九年の役で反乱軍の長・安倍貞任と同じ方法で晒します。こうして累代の悲願・奥州制覇を成し遂げることに成功しました。

全国の武士を膝下に置くことに成功した頼朝。しかし戦いはこれにて終わりにはなりませんでした。以降、最後の戦いを挑むべく京へと上洛の兵を挙げました・・・と言うところで京はここまで。明日は「鎌倉武士労働組合発足!」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月10日 (水)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑧

おはようございます(今日の起床時間=5:00)

前九年・後三年の役から約100年。陸奥・出羽に君臨した藤原氏は清衡・基衡・秀衡の三代にわたり平和を享受しておりました。肥沃な大地と駿馬・砂金といった特産物の生み出す富を基に大層繁栄しておりました。都で保元・平治の乱から騒乱が起こったときも、当主秀衡の巧みな外交手腕により奥州に騒乱が持ち込まれることはなく、相変わらず平和と繁栄を享受しておりました。特に源平合戦が始まってからの外交は「どちらに転んでも大丈夫なように保険をかけつつ双方を敵に回さない」ことに成功しています。清盛からの源氏討伐令には了解する返事を出し金・駿馬を貢いで平家に恭順の意を示しつつ源氏の御曹司・九郎義経を密かに庇護したり、頼朝挙兵後はその義経を兵を付けずに鎌倉に送り届けたり(兵を付けてしまえば完全に平家を敵対することになりますが、そうしないことで万一源氏が負けた場合にも「義経が勝手に飛び出て行っただけで決して源氏に与力したわけではない」といい逃れる道を残しています)といった具合です。

奥州の富と巧みな外交手腕で平和と繁栄を享受してきた藤原氏ですが、環境は徐々に厳しさを増してきます。源平合戦で源氏が勝利し、頼朝が全国の武士を膝下に置き「幕府」を設立しようとしている最中、当主秀衡は密かに苦悩しておりました。頼朝は決して奥州をこのまま放っておくまい。なぜなら彼の目指すものが「全武士を自分の膝下に置く」こと(前回書いたように武士の組織化率が高ければそれだけ権力も増します)であり、奥州17万騎の独立勢力は認めないであろうことが段々分かってきたからです。明確に敵対はしないものの、義経が頼朝と対決し、奥州に亡命した際には再び庇護し、頼朝との対決姿勢をあらわします。

義経を庇護した段階で、推測ですが秀衡は鎌倉との全面戦争を覚悟していたのではないでしょうか。このままではこちらがいくら恭順の意を示したとしても戦争をふっかけられるのは避けられない。そうなれば奥州以外の全国から兵を動員できる鎌倉方の軍事力ゆえ、勝てる見込みは少ない。しかし頼朝は決して17万騎という膨大な軍事力を持ったまま藤原氏の存続は認めまい。となると・・・

義経は「戦バカ」ですが戦争の腕は一級品です。この腕と奥州17万騎の軍事力・および地の利を生かした戦いをすれば、何とか光明を見出せるのではないか。いや、光明を見出そうとしたのではないか、とワタクシは推察するのです。行くも地獄・引くも地獄。厳しい状況の中で見出したかすかな光に秀衡は「賭けた」のではないか、と思うのです。

いまわの際に嫡男泰衡に「義経を総大将に頂き皆で支えよ」と遺言しますが、これも奥州藤原家が生き残る術はこれしか残されていないという認識でいたからだと思います。

しかし、秀衡ほど状況判断能力のない泰衡は、冷静に考えれば許してくれるはずもない(そもそも藤原氏をつぶす口実と機会を狙っていたのは明白!)ことは明確であるのに、目の前の頼朝の軍事力・軍事圧力から逃れることしか頭になく、義経の首を土産に許してもらおうと願い出ます・・・上に立つものが状況判断できないと悲劇を招く、典型的な事例です。こうして奥州藤原家は自滅への道を歩みだしました・・・

というところで今日はここまで。次回は奥州藤原家の終焉と幕府の誕生をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月 9日 (火)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑦

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

源平合戦のスター・九郎義経。前回彼を「戦バカ」と評しましたが、その理由を述べたいと思います。

兄・頼朝と反目するきっかけとなったのは、一の谷の合戦後に頼朝に無断で五位検非違使の位を受けたことですが、このことについて義経自身は何でこのことが頼朝を怒らせたか理解できていません。このことは源平合戦後に平家の総帥平宗盛を鎌倉に連行するも手前の腰越に留め置かれた際に彼が書いた「腰越状」に「位を受けたのは源氏の名誉のためであり、他意はございません」といった意味のことを書いていることからも明らかです。「えー、位を無断で受けたくらいでかわいそう」と思われるかもしれませんが、私は至極もっともだと思っております。

頼朝の目指したもの、それは「朝廷権力も出が出せない、武士の・武士による・武士のための権力基盤の設立」です。20年の流人生活で武士の置かれている状況・一番の願いが「所領権の保障」であることを頼朝は知ります。そこで、源平合戦以降彼が目指したのは、従来の権力機構の中での出世ではなく、全国の武士を一まとめにし、その武力を背景に武士の所領の後ろ盾になる組織を作ってその長になることで朝廷内での出世と比肩する権力を手に入れることです。会社で出世するのではなく、労働組合を作ってその委員長になるようなものでしょうか。会社と対等に交渉できるような組合を作るにはどれだけ労働者を組織化できているかが鍵となります。組合員占率が低ければ、非組合員の労働者をたきつけることで組合を取り崩すこともできますし、なにより資本家の側しにしてみれば占率の低い組合の要求なんて怖くありません。よって、頼朝が結成を目指す「鎌倉武士労働組合」にとって何より大事なのは組合員占率、つまり全国の武士を頼朝の傘下に入れるということでした。

そのような状況の中で、頼朝に無断で朝廷から位を受けるということは、組合員が会社からポストを餌にした「組合つぶし」に引っかかったのと同じです。親会社=朝廷からポストを欲しいのはどの武士も同じです。しかし頼朝は朝廷よりも自分=幕府の命令に武士を従わせないといけません。そうでないと朝廷に対して物言いしようとする場面に直面しても自分よりも朝廷の言うことを聞く武士がいればその武士に足を引っ張られることになりかねません。だから御家人には「頼朝に無断で朝廷から位を受けてはいけない」という命令を下していたのです。

それをよりによって委員長の弟が破ってしまいます。朝廷の「組合つぶし」にまんまと引っかかってしまいます。(しかも本人にその自覚なし!)「弟だから」と特別扱いすれば「委員長の弟も位をもらったのだから、私ももらっていいんだ!」と解釈する武士が続出する可能性は非常に高くなります。そうすると「幕府よりも朝廷の言うことを聞く武士」が殖え、結果朝廷に対して物言いする場面がきても朝廷に勝てなくなってしまいます。そうなると「武士の所領の後ろ盾」にはなりえません(国衙の役人に御家人の所領の収奪を止めさせることもできなくなります)

このほど左様に義経の「無断任官」は頼朝にとって、頼朝が目指す「鎌倉武士労働組合」=鎌倉幕府設立という目的に照らせばいかに許しがたいことであるかがわかります。それが分からなかった義経を、私は「戦は上手だけど自分のおかれた状況を的確に判断する能力に欠ける」と言う意味で「戦バカ」と呼ぶのです。

さて話を少し戻すと、義経投入後あれよあれよと言う間に平家を西へ西へと駆逐し、ついに壇ノ浦で海の藻屑としてしまいます。そこから頼朝との確執が表面化し、ついには頼朝へ反旗を翻すにいたります。頼朝へのクーデターは失敗し、転々と逃亡を繰り返し、ついには若き頃お世話になった奥州藤原家に身を寄せます。北の王者・藤原秀衡は爆弾を抱えることになると知りながら彼を再び庇護します・・・と言うところで今日はここまで。次回は「北の王者・秀衡の苦悩と賭け」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月 8日 (月)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑥

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

さて、とうとう20年間伊豆でプー太郎生活を送っていた頼朝君の下にも以仁王からの「平家打倒」の命令書が届きましたが、それまでのプー生活で知ったことがあります。それは・・・武士が何を一番欲しているか、いかに武士の所領の領有権が不安定な状態にあるかということでした。

気を抜いていると隣近所の武士やら国衙の役人やらが手を出してくるような状態で、それを裁いてくれるところもありません。自分の身は自分で守らざるを得ない時代。「自己責任」といえば聞こえはいいでしょうが、これじゃ安心して生活できません。土地がなくなってしまえば自分や一族郎党路頭に迷いますから。

とはいえ、以仁王の令旨が届いたからといって自前の軍隊があるわけでなし、舅の北条時政の軍にて挙兵するものの石橋山で大敗。命からがら脱出し、関東一円の「反平家武士団」の挙兵を待ちます。体制が整ったとこで一門とゆかりの深い鎌倉に拠点を築き、そこから指令を出すスタイルをとります。というか、とても本拠地を空けることの出来るような状態でなかったというのが実情で、まだ平家に組する武士団も関東には多く、また源氏・平家のどちらに付くのか不鮮明な奥州藤原氏の存在も不気味でした。(後ほど書きますが、奥州藤原氏三代秀衡ほ中立外交は見事の一言でした)。そこで自分は本拠地鎌倉に腰をすえ、部下に軍を率いさせて派遣すると言うスタイルをとります。自分は鎌倉で武士を組織化し、武士の所領を自らの権威で保障する体制の構築に入ります。

ここでスターとなったのが「戦バカ」九郎義経です。潜伏先の奥州から兵を伴わずに鎌倉入りし、(「兵を伴わず」というところに秀衡のうまさがあります)あれよあれよと言う間に木曽義仲・平家を倒していきます。その将帥としての腕は一級品といってよいでしょう。

しかし、ワタクシは義経を余り評価していません。先ほど書いたとおり「戦バカ」だと断じております。それは義経の状況判断能力の低さ、頼朝が何をしようとしているかが余りにも見えていなかったからです。

「えー、それってどういうこと?」となりつつ今回はここまで。次回もお見逃しなく!

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2006年5月 7日 (日)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その⑤

おはようございます。(今日の起床時間=6:30)

保元・平治の乱を経て中央政界での地位を築いた武家・平家。一門の長清盛が正一位太政大臣に出世したのを筆頭に一門の者が軒並み高い官位を得、また所領・知行国(国司の任免権を持つ国)・国司を務める国も激増。経済面でも大発展を遂げます。

一方平治の乱にて「負け組」に組した源氏はというと、棟梁義朝をはじめ乱に加担した武将はあらかた死刑となり、嫡男頼朝(当時13歳)のみがほぼ唯一の例外として伊豆に島流しにされ命長らえておりました。(とはいえ平家方に加担した「源三位頼政」を初めとする摂津源氏は中央政界でブイブイいわしていたのですが)

親父・兄弟をあらかた殺され、家来も所領もなく伊豆に軟禁状態の頼朝君。地元の武士の娘に手を出すといったこと以外はなーーーんにもすることがなく、ニートの如くブラブラしておりました。でも男前だったので女にはモテた様でございます。ウラヤマシイですな。

頼朝が伊豆でブラブラしている20年間、2つの「反平家感情」が醸成されておりました。

①「一門とその周りの武家だけおいしい目をして、我々の暮らしは楽になるどころか返って平家方の武士に所領を脅かされるようになった。せっかく我々と同じ立場の人が政権をとったということで期待をしていたのに・・・」という武士

②「武士という卑しい身分でありながら昇殿をゆるされたばかりか参議にもなり、あまつさえ太政大臣だと?ワシらの領分を荒さんといて欲しいわ」という貴族・皇族

とくに①武士の不満は切実であったろうと思われます。武士の一番の願いは所領の安定。先祖代々受け継いだ土地をいかに守るかが至上命題である彼らにとって一番欲しいのは「所領の所有権を保障してくれる存在」です。平家が政権をとったときに全国の武士が期待したと思いますが、その期待は見事に裏切られます。結局貴族・寺社と同じく自分の所領を広げることしか関心がないということが明らかになりましたので、成功者へのやっかみも含めて「なんや、平家なんて」という空気が出来ていった(但しこれをあからさまにやると追討されてしまうので、腹の中で)と思われます。

最初にカタチに現れたのが②の不満です。自分では実現させる力もないのに後白河法皇の別荘に集まって「平家打倒の謀議」を企てた「鹿ケ谷事件」(実態は謀議というよりは酒の席での愚痴だったそうです)。当然、平家によってつぶされます。次に噴出したのが後白河法皇の三男の以仁王。清盛の娘が生んだ皇子が天皇に即位(安徳天皇)したのを受け、自分に皇位が回ってくることがなくなったのにヤケになったのか(でもこの方、親王宣下も受けていないので、元々即位できる可能性はほとんどなかったのですか)クーデターを企てます。クーデター自体はあっという間に鎮圧され、本人も矢に当たって戦死します。(源氏で唯一中央政界に残っていた源三位頼政もクーデターに加担して戦死します)

しかしその際に全国の武士に宛てた命令書=令旨が源氏一門のハッタリ屋、十郎行家によりばら撒かれます。この令旨(本来親王しか令旨を出せないのですが、ここでは身分を偽って出しました)が①の空気に火をつけ始めます。が、依然巨大な軍事力と経済力・および天皇を擁しているので「官軍」足りえる平家の絶対優位は揺るぎません。

20年間のプー太郎生活がすっかり板についてきた元少年武将・頼朝。しかしこの20年間で実はその後の人生と日本の歴史を決定付ける大きなことを学んでいたのです。と言うところで今日はここまで。次回はニートを卒業し社会に向かって歩み始めた「頼朝君のドキドキ源平合戦」をお送りします。お楽しみに!

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2006年5月 6日 (土)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その④

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

3日から5日まで京都の実家に帰っていたのですが、帰ったその日に風邪をひきまして、風邪のおかげでお腹を壊してタイヘンでした。一日8回トイレに駆け込み、そりゃぁ苦しみましたさ。最初はこれを機会に「私の中の良からぬモノ」をジョビジョバァ~っと出してしまおうと思っておりましたが、しまいにゃぁ出すものがなくなっても排出意欲だけは収まらず・・・ってな状態になり、実家の近所の休日診療所に駆け込む事態となりましたとさ。

しかし昨日で復活しましたので、今日から「日本通史」を復活させていただきます。皆様、宜しくお付き合いのほどを。

「この世をば わがよとぞ思う~」と栄華を極めた藤原摂関家。しかしそれも藤原氏を外戚としない後三条天皇の即位(1068年)によりその権力基盤を揺るがせ始めます。後三条の後を継いだ白河天皇は息子(堀川天皇)に皇位を譲った後天皇の父として朝廷を牛耳り始めます。いわゆる「院政」の始まりです。白河院は息子・孫(鳥羽天皇)・曾孫(崇徳天皇)の3代にわたって院政を引き、なくなります。この際、崇徳天皇は鳥羽天皇の実の息子ではなく白河院の息子であるという噂がまことしやかにささやかれ、(息子の嫁ならイザ知らず、孫の嫁に手を出す白河院!バケモンか、あんた)その噂を鳥羽天皇も信じていた模様で、元々崇徳帝を嫌っており、崇徳帝への譲位もいやいやだったそうです。そういう背景があったため、白河院没後に鳥羽院が院政を引く段になると、露骨に崇徳帝を排除するようになります。まず弟(鳥羽院にすれば、実の息子)への譲位を強行し(近衛天皇)、近衛天皇が没すると「遊び人でやる気もなく、どうしようもなく皇位継承するに値しない」とまで評された雅仁親王(崇徳院の弟・これまた鳥羽院にすれば、実の息子)を天皇にします。これが後白河天皇の誕生です。

この譲位により、自分の息子に皇位を継がせる可能性が非常に低くなったことに崇徳院は危機感を覚えます。さらに藤原摂関家の氏長者争い(兄・関白忠通と弟・左大臣頼長)も加わり、宮廷内に不穏な空気が立ち込めます。この争いを勝利に導くため、崇徳院側・後白河天皇側ともに兵を集めます。が、それは自前の兵ではなく、自分に協力してくれる武士の兵力でありました。そう、武士団の兵力です。ここで注目いただきたいのは日本の最高権力の争いのキャスティングボードを握ったのがいままで権力者(皇族・貴族など)からしてみたらゴミのような存在だった武士であったという点です。そして鳥羽院がなくなられるとこの対立は一気に武力闘争へと発展します。1156年、保元の乱の勃発です。

結果はご存知の通り崇徳院側の敗北・後白河天皇側の勝利に終わります。そして崇徳院側に付いた者たちへの処分が下ります。ここで都人に衝撃を与えたのは2点。一点目は都で武力衝突が起こったこと自体。もう一つは薬子の変以来350年ぶりに死刑が復活した点です。皇族・貴族が絡んだ権力闘争は数多あれど、いままでなら島流しですんでいたものが、「武家の習い」にしたがった事後処理がなされたのです。鎌倉時代の歴史書「愚管抄」では、この2点から保元の乱が「武家ノ世」の始まりであったと評しています。

愚管抄の評したとおり、日本の中心で武士の力をまざまざと見せ付けたものですから、武士のステータスが上がらないわけはありません。保元の乱の3年後の平治の乱を経て、ついには摂関家や院政をも上回る権力を手中に収める武家も誕生します。そう、平家です。・・・といったところで今日はこれまで。次回以降本題の(じゃあ今までのはなんだったの?)源平合戦から鎌倉幕府誕生に入ります。乞うご期待!

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2006年5月 3日 (水)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その③

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

世はゴールデンウィーク真っ最中ですが、そんなことは関係なく行きますよ~。

墾田永年私財法をきっかけとした「開墾ブーム」に乗り、未開の地の多い辺境地域(=都から遠い地域)に多数発生した自営農民が自衛のため(そもそも官製の警察権力がないのが問題ですが)武装し、「武士団」が生まれます。その武士団同士でのイザコザ(平将門の乱・平忠常の乱)や朝廷の異民族政策に対する異議申し立て(前九年役)、または地方豪族の内輪もめ(後三年の役)をきっかけに発生した朝廷に対する反乱に対して、官僚機構を牛耳る貴族に公金で私服を肥やされた結果やせ細った大和朝廷官僚機構は自前で軍隊を送ることも出来ず、有力な武士団を官軍司令官に任命して鎮圧させるという手段に出ざるを得ませんでした。

また、徴税に関しても自前で徴税官を派遣して税を取り立てることも出来ず(大貴族・有名寺社の墾田には「不輸・不入」ですし)、国司に徴税権を丸投げして徴税してもらう羽目に堕しました。(結果、国司のポストが利権となりました。国家の名の下に税を徴収できるのですから、国に収める以上の取立ては即自分の実入りになりますし)

国家運営の基本である徴税権・警察権の執行を自前で出来なくなるほど弱体化した大和朝廷。それに対して「独立自衛武装農民」=武士団が徴税・警察の実務を担うにいたります。しかし朝廷は「大義名分」と「官職」によって武士団を操ることでまだ日本を支配することが出来ておりました。が、実務を担う武士にこんな疑問が沸いてきます。

「俺たちが実際汗と血を流して仕事をしてるのに、何で貴族連中はあんなに俺たちを見下すのか?」

「何でご先祖様が切り開き、俺たちが耕している土地のアガリを、何も働かずにブクブク太る都の貴族連中に吸い取られないといけないのか?」

こんな疑問を抱きながらも、実務執行能力をますます高めてゆく武士団。その力を都の貴族連中に思い知らせる機会がやってきます。といったところで以下次号!お楽しみに!!

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2006年5月 2日 (火)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その②

おはようございます。(今日の起床時間=5:00)

さて、743(天平15)年の「墾田永年私財法」により、開墾ブームが起こったと書きましたが、一点補足。都から近い地域では貴族・寺社による大規模な開墾が行われ、多数の貴族(主に藤原氏)・寺社の墾田が開発されました。そのような貴族・寺社の直営田では、租税や官憲の立ち入りを拒否する「不輸・不入」の特権が与えられていました(まあ、朝廷を牛耳っている連中ですのでそういった特権を得るのはカンタンといえばカンタンですが)

一方都から遠い地域では中小規模の墾田が開発されましたが、当然といえば当然ですが墾田は自分のものになるものの相変わらず租税は課せられますし、警察機構が未発達なので土地・水利をめぐる争いが頻発するようになります。その結果以下の2点において墾田経営者は不満を抱くようになります。

①せっかく汗水たらして開発したのにむざむざ税を持っていかれるのはイヤ

②隣近所・国衙からのチョッカイに対して所領を守ってくれるものがない!

①に関しては解決策として、大貴族・寺社に「名義貸し」を行い、彼らの墾田の持つ「不輸・不入」の特権をいただくという行動に出ます。これがいわゆる「荘園」となります。名義はタダでは貸してくれませんのである程度の「名義貸し料」を支払うことになりますが、それでも税を持っていかれるよりはマシだったようです。

結果、租税のアップを期待しての「墾田永年私財法」により、墾田は増えたものの租税はアップせず、変わりに貴族や寺社のポケットマネーを増やすといった結果になりました。法人税収入を期待して1円起業できるように会社法を改正し、起業ブームにより企業数は増えたたものの、お役人への賄賂により脱税する企業が続出して国庫はやせ、お役人の懐が肥えるといった感じでしょうか。

②に関しては、守ってくれるものが誰もいないので、やむを得ず自衛のために武装をするといった結果になります。これが武士および武士団の誕生につながります。いわば、武士団は「独立自衛武装農民集団」ともいえます。なにせ徴税権を与えられた国衙(朝廷に任命された国府の役人)までもが収奪に来るのですから。このような「独立自衛武装農民集団」のイザコザが、とくに都から遠く離れた地域で頻発します。そのイザコザの代表例が「平将門の乱」(939-940年)です。もっともこの乱では行きがかり上「朝廷からの独立」を宣言してしまったために朝廷の威光を受けた武士団の頭目=平国香および藤原秀郷(奥州藤原氏の祖先)により鎮圧されてしまいましたが。

摂関家の全盛期に向かい、ごくごく少数の「勝ち組」貴族・寺社とその他大勢という超格差社会=平安時代において、独立自衛武装農民=武士なんて貴族から見れば塵芥のような存在でしかアリマセンでした。しかし、額に汗して働くものが歴史の表舞台に出るのはもうすぐだったりしつつ以下次号!でございます。

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2006年5月 1日 (月)

ヤマサンの日本通史~大化の改新から源平合戦その①

おはようございます。

これまたずいぶんご無沙汰してしまいました。春の陽気と眠気にどうにも勝てないワタクシでございます・・・

と、今日から少し心を入れ替え、早起き&ブログ執筆を再開いたします。ヨロシクお付き合いのほどを・・・(とか言ってまた起きられなくなったらどうしよう・・・)

さて、本日のタイトル「日本通史」ですが、歴史をつながりのある連続体ものとして眺めると結構面白くなるものですから、ヤマサンなりの歴史の見方をご披露いたすものです。異論・反論・ツッコミは歓迎いたしますので、時間と余力のある方は、是非。

「ムシゴメで祝う大化の改新」という語呂合わせで覚えた方も多いのではないでしょうか。645年にいわゆる大化の改新が決行されます。これにより当時最大勢力であった蘇我氏の本流が誅され、翌年一月に「改新の詔」が発せられます。

そこで一番のポイントは公地公民制~土地と人民を天皇=朝廷が独占する、と言う点です。ある意味私有財産を禁止することでもありますので、労働意欲は低下、耕作を放棄するものが続出いたします。当然税収も低下しますので、困った朝廷は723(養老7)年に自力で開墾した土地について、自分から孫の代までの土地の所有を認めた「三世一身の法」を公布します。

それまでの土地私有禁止から大きく方向転換したものの、所詮は孫の代になったら土地を返さなくてはいけないので、あまり効果があったとは言えませんでした。そこで743(天平15)年、開拓した土地に関しては子々孫々私有を認める「墾田永年私財法」が施行されます。これにより開墾ブームがおこり、特に未開の土地の多い辺境地(都から遠い地域)において「一山当ててやろう」という意欲を持った人たちがワンサカと開墾に赴くことになりました。(起業ブームみたいなものですな)

ワンサカと開墾ブームに乗って開墾する人が増えたはいいのですが、トラブルも多発するようになります。というところで以下次号。ちなみにこのシリーズは何回続くかは、私にも分かりません・・・

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2006年2月 8日 (水)

週刊ビジュアル日本の合戦

おはようございます。(昨日の起床時間=4:40 △ 今日の起床時間=4:00 ○)

ワタクシは標記週刊誌を購読しております。

毎号1合戦を取り上げ、その背景とか合戦の実際などを語ってくれています。

先々週の「北条氏康と河越夜戦」は歴史好きを自認するワタクシもその存在すら知りませんでしたので大変興味深く読みました。

扇谷上杉・山内上杉・古河公方連合軍8万を8千の兵で打ち破った戦い。桶狭間・厳島(毛利氏が陶氏を打ち破った戦い)とならび戦国期の3大奇襲戦と称される戦いだそうですが・・・全く知りませんでした。

本ブログでもたびたび歴史ネタには触れていますが、まだまだワタクシの知らない歴史も沢山あるのです。これだから歴史は止められません。

こんな歴史を「嫌い」という人が多いのがワタクシには信じられません。教え方が悪いとしか思えないのですが。

せっかく2000年近い歴史を持つ国に生まれたのです。存分に楽しんじゃいましょう!(アメリカ人ではこうは行きませんよ!)

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2006年2月 1日 (水)

いまさら怒ってもしょうがないのですが・・・

おはようございます。(今日の起床時間=2:36 4時起き達成は◎?)

今「失敗の本質~日本軍の組織論的研究」(戸部良一他著 中公文庫)を読んでおります。本書では第二次大戦でのエポックメーキングな戦いにおける日本軍の行動を組織論的に論じています。ワタクシは本書中で取り上げられている「インパール作戦」の内実には呆れ、驚き、そして怒りを感じました。

作戦の内容およびその悲惨な結末はご存知の方も多いと思いますので詳しくは触れません。「失敗の本質」で触れられているのはその作戦の意思決定過程です。それがいかにもお粗末と言うかなんというか・・・

計画の立案者は第15軍司令官の牟田口中将。彼は2年前に自らが「実施困難」として却下した「インド侵攻作戦」を具申します。冷静に考えれば人員・兵站の確保・天候地形の困難(作戦予定区域は峻険な山岳地帯&熱帯雨林。雨季には何千ミリ単位で雨が降る)・疫病の吹き溜まりといった数々の点から到底実施は無理ということは子供でも分かります。しかしそれらの冷静な意見(部下の参謀・大本営)を無理やり押し切ってしまいました。日中戦争開始時に盧溝橋の守備隊長だったこともあり、「盧溝橋の借りを返す(?)」という個人的な意欲に燃えていた結果だそうですが・・・

軍制的に冷静さを失った大将を抑えられるのはその上司のみなのですが、上司であるビルマ方面軍河辺司令官も、「盧溝橋時代からの部下」である牟田口中将の意欲をかなえさせてやりたいばかりに牟田口の意見を抑えるどころか援護射撃をする始末。合理的判断より「人情」「組織内の融和」を優先させてしまいました。

ついには大本営も「現地司令がこれだけ熱心に意見するのだから」と作戦にGOサインを出してしまいます・・・・

10万人の将士のうち戦死3万・戦傷戦病2万・生還した5万人も大半が熱帯病にかかっていたという悲惨な結果に終り、ビルマ・雲南方面の防衛線もガタガタに崩壊してしまいました。

合理的判断より人情・組織的融和を優先させ、多大な損失を発生させる。組織が自壊作用を起こすときに見られる現象ですが、その典型的な例をいえましょう。そのなかでもこれがけの大量の人命まで失われる原因がこんなお粗末な意思決定に由来していると知ったらビルマ(現ミャンマー)に眠る兵士も浮かばれませんよ、きっと。

そして今、似たような現象がそこかしこで・・・旧道路公団とか社会保険庁とか・・・

怒りとむなしさが交錯してしまいます。

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2006年1月 9日 (月)

戦略家・織田信長

おはようございます。(今日の起床時間:5:00 4時起き達成は×)

昨日「戦略家・源頼朝」と言う文章を書きましたが、書き終えてから「戦略という点から言うと、誰か忘れてるよなぁ・・・?」と思い立ち、よくよく考えてみると「信長」ははずせないということを思い出しました。ので、「戦略家」という点から信長を評してみたいと思います。皆様宜しくお付き合いのほどを・・・

復習になりますが、「戦略」という言葉の定義ですが、「目標達成までのステップ・経緯を想定し、それに則った行動を取ること」でした。すなわち戦略とは

①目標を設定する

②設定した目標までのステップ・経緯を想定する

③想定したステップ・経緯に基づき、課題をクリアすべく実行

という3段階から構成されています。特に「戦略」という言葉において見過ごされがちなのが①の「目標設定」です。まず「(遠い)ゴールを設定」するということが戦略の第1歩なわけです。「何のために・どこに向かうのか」を決めることがまず大切です。昨日書きました頼朝の場合は「プロレタリア自営農=武士の権益擁護のための権力基盤」であり、今日これから書く信長の場合はご存知「天下布武」なわけです。

信長が「天下布武」を意識し始めたのはいつからか、はよくわかりません。が、自らの目標としてアピールし始めたのは美濃を征服し居城を岐阜城に移してからのことです。でも良く考えるとこれってかなり無謀なことです。日本に60カ国あるなかの2つ(尾張・美濃)を治めているだけの武将が「全国制覇」を目標に掲げたのですから。若気の至りっちゅうかなんちゅうか・・・

おそらく「天下布武」のスローガンを掲げた当初は以降のステップはまだ明確になっていなかったと思われます。しかし、この大目標「天下布武」を掲げたことにより、以降の信長の進路は明確になったのです。その時々で直面する現実に対してもこの大目的に照らして対処を決めていたのは疑いありません。例えそれが大きな困難で、目標を取り下げたほうが楽になれたとしても・・・(特に信長包囲網の中石山本願寺との10年戦争を戦っていた最中には何度が投げ出したくなったかもしれません)

とくに「戦略」と言う面でワタクシが感心するのは擁立した15代将軍・義昭から上洛させてくれたお礼にポストの希望を聞かれ際、幕府の要職(副将軍・管領など)には見向きもせずに堺の直轄を望んだことです。一般的には「信長は幕府の将来を見限っており幕府の要職に就くことを望まなかった」と解釈されていますが、私もその通りだと思います。ただ、それは今現在振り返っていえることで、その当時そんな思考ができたのはおそらく信長くらいでしょう。腐っても室町幕府が滅びるなんて思いも寄らなかったでしょうし。ほかの武将なら喜んで管領職なりを引き受けたと思われます。ある種歴史的視点からの後出しジャンケン的な対処であったと言えましょう。戦略と言う面から言いますと、「天下布武」という大目標の達成と照らし合わせると、幕府の要職に就き将軍の組下に入るよりも、堺を支配し、その金銭的富と最新兵器=火縄銃を大量に確保したほうが良いと判断したと思われます。これまた当時の人間ではなかなかできない発想でしょう。第一堺は商人の自治都市でありそこを支配できるかどうかも定かではなかったですし。

その後も常に「天下布武」という大目標に向かってその時々の問題に対処していきました。楽市楽座・比叡山焼き討ち・長島や越前での一向宗の大虐殺・石山本願寺との10年戦争などなど。言い方を変えると、予め設定した「未来の自分」によりその時々の自分をコントロールしていたとも言えましょう。目標達成=成功のために大切な技法であると思いますので、これについては後日書くつもりですが、その実例として織田信長が挙げられます。

ただ、大目標の達成のために大切なはずの周りの人間への気遣い・配慮といった点をおろそかにしてしまったがゆえに腹心に寝首をかかれる結果になったわけですが。なんもかんもパーフェクトにできる人なんで、滅多にいませんわな。

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2006年1月 7日 (土)

戦略家・源頼朝

おはようございます。(今日の起床時間=5:00 4時起き達成は×)

さて、昨日の「定義る!シリーズ②「戦略」」で予告しました「戦略家・源頼朝」についてです。

世間一般的には源頼朝と言う人物、「イイクニ作ろう鎌倉幕府」の創始者として認識されていると思います。大正解です。が、この武家政権の樹立という事実のインパクトって意外と認識されていないとおもうのです。言い換えると、「武家政権の樹立と言うことがどれだけ大変で、どれだけ武士にとって切実なものであったか」ということって案外知られていないと思うのです。今回はそこらへんから述べて行きます。皆様ヨロシクお付き合いのほどを・・・

この頼朝と言う人物、軍隊の指揮官としての能力は「?」です。平家追討の旗揚げ後の石橋山では平家方に大敗していますし、それ以降は自分で軍を率いての戦をした形跡が見当たりません(ワタクシが知らんだけかもしれません。知ってる方は、教えてください。)が、軍隊の指揮官としての能力以上に長けていたのが「武家政権の樹立」というビジョンを描く能力でありその大目的に向かって手を打つ戦略家としての能力です。

そもその頼朝の生きた時代、武士の位置づけは「武力で貴族・朝廷に仕えるパシリ」でしかありませんでした。いいようにパシらされているだけで、ご褒美としては名誉職としての「官職」か土地の開発許可(土地そのものではない)くらい。パシらせる方(貴族・朝廷・寺社など)は「名義貸し」という手法で全国の自作農からチュウチュウと不労所得を吸い上げておりました。(「荘園」と言うヤツです)一方の武士は地方在住の「独立武装自営農家」でもあり、未開の土地を開拓し、開拓した土地の収穫で暮らしを立てておりました。が、先ほど書いたように自分で汗水たらして切り開いた土地の収穫を貴族・朝廷・寺社仏閣といった連中に「俺の名義を貸してやるからアガリの一部をよこせ」とばかりに吸い取られておりました。もちろんそんな状態に満足してはいませんでしたが、吸い取る階級にたてついたら「逆賊」の汚名を着せられ、自分の所領を虎視眈々と狙うライバル自営農=武士に攻め込まれブン捕られる格好の口実を与えてしまうことになるので泣き寝入り・・・と言うのが大方の武士の実態でした。

源頼朝が戦争デビューしたのが1159年の平治の乱。父親で源氏の棟梁であった源義朝に従い従軍するも平清盛率いる平家軍に惨敗。捕らえられ首をはねられる寸前で清盛の義理の母池禅尼に命を救われ、伊豆の蛭ヶ小島に流され、平家方武士の監視を受けながら生活を送ることになりました。それから約20年間、これといった定職にもつかず(今日で言うニート?)、たまに地元の武家の娘に手を出して親父に怒られたりといったこと以外は何をやるというでもない日々を送っておりました。そんな日々の中、地元の武士と付き合う中で上記のような武士=独立自営農の境遇を知ったものと思われます。そして知ったのです。武士が何を望んでいるのか、を。

伊豆に流されてから約20年後、平家のおかげで天皇になる目がなくなった皇族・以仁王(親王とすら名乗れなかった人なのでもともと皇位継承と言う面ではほとんど可能性がなかったのかもしれませんが)が平家追討の命令を発し、それをきっかけとして各地で平家追討のための武装決起が相次ぎました。頼朝の下にも以仁王の令旨(命令書)が届けられましたが、なにせ自前の部下も軍隊もなにも持っておらず、かつ平家方に常に監視されている身の上では決起などできるはずもありません。しかし東国でも平家に対する不満が高まっていたのでしょう、反平家武士団によって担ぎ出される形で平家追討の兵を挙げます。

ところで平家に対する不満はなぜ高まったのか、ご存知でしょうか?答えは「元々武士だった平家が吸い取る側に回ったから」です。先に書いたように武士=独立自営農は常に貴族・朝廷・寺社仏閣といったエスタブリッシュメントに汗水たらして得た収穫を吸い取られる立場にありました。もともと吸い取られる立場であったはずの平家が権勢を振るうようになると一門が高位高官にのぼり、一門およびその周りの武士に土地が分配されるといった事態となりました。せっかく自分と同じ立場の人間が中央でえらくなったと思ったら・・・なんや、お前もチュウチュウ吸い取る輩と同じかい、と多くの武士がガッカリしたことでしょう。期待した分だけ、余計に。

20年の流人生活で知った武士の境遇と願い。それは「自分の所領を保障してくれる後ろ盾がほしい」ということです。武士の権益を守る労組みたいなものを。頼朝はいわば「労働組合」を立ち上げその委員長に納まることを目的としておりました。「万国の自営農よ団結せよ!」と言ったかどうかは定かではアリマセンが・・・そしてその大目的が全国の武士の支持を受け、平家の武力を圧倒していったのです。「自らの栄華栄耀」のために動く平家と「武士の権益擁護のための独立権力」を目指した源氏。源平合戦の勝敗を決めたのはこの両者の目的にどれだけの武力=武士が着いたかで決まったとワタクシは考えております。

「武士の権益擁護のための独立権力」の確立のためと言う目的を持ち、そのために必要な手を打っていった戦略家・頼朝。それと対比されるのが稀代の戦術家・義経です。義経については「義経に見る戦術と戦略」に書きましたのでそちらを参照いただきたいのですが、目の前の目標=戦の勝利・平家追討を達成するのには抜群の能力を持っていたものの、悲しいかな兄頼朝の見ていた戦略=武士労働組合の結成が見えておらず、それがゆえに頼朝委員長に無断で朝廷の名誉会長=後白河法皇から会社のポストを受けてしまったのです。労組の委員長の身内がポストで釣られる・・・委員長にしてみれば許しがたい裏切りです。ここで仏心を出せば「俺だってポストほしいわい。委員長の弟がもらったのなら俺だって!」という組合員が続出し、そうなったら鎌倉武士労働組合は空中分解してしまいます。ので、絶対に許さなかったのです。この頼朝の選択は私は正解だったと思います。たとえ後世の人間からの評価が芳しくなくても。

そしてその戦略眼が、以降700年続く「武家政権」を創設させたのです。こう考えると、頼朝の戦略眼は偉大であった、と思いませんか?

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2005年11月23日 (水)

「義経」に見る戦術と戦略

おはようございます。(今日の起床時間=4:36 4時起き達成は△)

さて、日本人は基本的に「判官びいき」と申しまして、義経と頼朝とを比較すると義経のほうが人気があります。「平家追討(一発目の漢字変換では「ついとう→追悼」って出ました。ある意味、正解)で大手柄を立てたのに兄頼朝に迫害を受けたかわいそうな義経」というのが一般的な理解であると思います。大河ドラマも概ねこの方針であると私は理解しています(先週の石原さとみの静御前はド迫力でびっくりしました!)しかし、ヤマサンは義経・頼朝兄弟の確執を考えるとき、「戦術家・義経は頼朝の戦略を理解できなかったがゆえに悲劇に落ちた」と考えます。

確かに義経は武将としてはたいしたものです。落ちたりとはいえまだまだ大兵力を擁し、地元の西国で源氏を待ち構えていた平家をたった1年半で滅亡させた手腕はたいしたものです。しかし、残念ながらその先、「何のために戦闘に勝利するのか」「平家を滅亡させたその先に目指すものは何か」ということを義経は理解していなかったと思うのです。例えて言うと、「とりあえず売り上げ目標を達成することに全力を注ぐ有能な営業マン」というところでしょうか。

一方源氏の棟梁頼朝には明確な戦略=大目的がありました。「朝廷から独立した武家政権の樹立」です。もっと平たく言うと「中小自作農=武士の権益を擁護する独立権力の確立」です。今まで自分で切り開いた土地の収益を荘園の名前貸しで公家・寺社・皇族といった方々にチュウチュウ吸い取られていた事に対する反感はあれど自分たちの権益を保護してくれる権力がなく泣き寝入りしてきた中小自作農=武士の権益の後ろ盾になる独立権力を打ち立てることを目指していました。いわば、老舗企業「大和朝廷」から独立を図る中小自営業者向けのキャピタルファンドといったところでございましょう。(頼朝は20年近い流人生活で武士と接する中で武士の願い・要望・擁護権力の必要性を悟ったものと思われます。)

そのキャピタルファンドの社長の弟が、親会社の会長から「君は働きが良いから営業部長のポストをあげよう」といわれ、それを受けたら・・・社長からしてみたら大きな裏切り以外の何物でもないのではないでしょうか。親会社からポストをほしいものはいくらでもいます。実利面もそうですが、名誉・ステータスの面でも。しかしそれを許していては「独立」にとって大きなマイナスになります。親会社による「切り崩し工作」に乗ったことになります。ので、「朝廷から官位をもらう際には鎌倉殿の許しが必要」としたのです。

ところが、よりによって社長の弟が親会社から勝手にポストをもらってしまいます。「社長の弟がもらうのなら俺だって!」となることは必定。と言うことは簡単に予測できたはずですが・・・「親会社からの独立」という大目的を理解していなかった義経は・・・受けてしまいます。これが社長・頼朝の逆鱗に触れたのは言うまでもありません。

こう考えると義経が「かわいそう」とはどうも思えないのです。きついようですが、「義経はアホやったんや」と言うのが私の評価です。確かに目の前の目標をクリアする=戦闘に勝利することに対する能力は抜群でした。しかし、その戦闘の勝利の先にある戦略=幕府設立・武士の権益擁護権力の確立を理解していなかったために所領を剥ぎ取られ、追討令を受け奥州に逃げ込み、最終的にはかくまってもらっていたはずの奥州藤原氏に討ち取られてしまいます。ある意味「自業自得」です。目の前の営業目標を達成することだけに注力するばかりに値引きを行い、売り上げ目標を達成したものの大赤字を出して会社に損害を与えてしまうということもありえます。組織の一員としては、「目の前の目標をクリアする」事も大事ですが、「組織が目指す方向・目標を理解して行動する」ことも必要です。リーマンとして、自戒を込めて。

ついでに言うと、源平合戦も「一門の隆盛」と「武士の権益擁護権力の確立」という大目的=戦略に対する評価が勝敗を決したと考えています。どの「戦略」に乗った戦闘集団=武士団が多かったか?で勝敗が分かれたのです。このことについては、またいずれ。

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2005年10月25日 (火)

出でよ、平成の「調所笑左衛門広郷」④

おはようございます。さて、いよいよ今回は調所笑左衛門の最期の回になりました。

ここでおさらいをしておきます。500万両(今日のお金に換算すると、約5兆円)という途方もない借金を重ね、殿様の交通費や藩士への給料支払いにも事欠くほどのビンボーさに苦しんでいた薩摩藩。餓死寸前の経済状態を何とかすべく奮闘していた25代重豪は茶坊主出身の側近調所笑左衛門に資金調達・藩の財政改革を命じます。大坂商人の出雲屋とタッグを組み資金調達・藩の増収策を成功裏に終らせ、ついには500万両の借金を「250年払」という荒業で片付けることに成功しました。その結果、藩には100万両の余剰金が生まれ、長年ほったらかしだった公共事業(藩邸の修理・橋の建設など)にも力を入れ、ようやくビンボーから抜け出すことが出来ましたとさ。

と、ここで終っていれば「めでたし、めでたし」のハッピーエンドなのですが、そうは問屋がおろしてくれません。ここからが歴史の残酷さでございます。

調所も齢70を過ぎ主君重豪も87歳で大往生。今は重豪の孫(第1回で子と書きましたが、孫が正解)の斉興に仕えておりました。一方、その重興の嫡子斉彬は30を過ぎても家督を譲られずにおりました。当主重興(&調所)にしてみれば、ビンボー時代を知らないボンボン斉彬は蘭癖(洋物好き)として知られた曾爺さん重豪の血を引いてか金遣いがよく(荒く?)、苦労してためた資金も湯水のように使い果たしてしまう恐れがあるため安心して家督を継がせることができなかったようです。一方斉彬は周りの人を魅了する天性の能力を発揮し、江戸幕府高官(特に老中首座阿部正弘)にも多数のシンパを持っておりましたが親父殿から一向に家督を譲ってもらえず、不満を強めてていました。その理由として考えたのが「親父のそばに仕える悪い奴=調所と側室の由良が邪魔をしているため」というものでした。(ちなみに由良は幕末に藩政を牛耳る島津久光の母)そして、江戸滞在中に自分のシンパの若い連中をたきつけて調所の暗殺を「指令」するなど調所の排除(というより、抹殺)を画策します。そして、ついには自分のシンパの幕府高官をも利用して調所に牙を向きます。

その手段は・・・とても今日「聖君」としてあがめられているものとは思えないものでした。

ある日、調所は老中首座阿部正弘に面会しました。それまでも琉球貿易で得た産物を長崎で売りさばける品数を増やしてもらう交渉などで太いパイプをもっており、重々付き合いのある相手でしたが、その日は勝手が違いました。

「薩州は福州(=中国)との交易で何を扱っておるか?」

「米、茶、たばこ、醤油などが主でございます」

「まだあろうが」

「・・・?」

「昆布じゃ。公儀により禁じられておるはずの昆布をお主らは扱っておるそうじゃの。証拠は挙がっておるぞ!」

「・・・・」

「琉球への人員の件(注:ペリーが琉球へ来航後薩摩は警護のため600名の軍勢を送っていると幕府に報告していたが、経費削減のため実行していなかった件)もある。お主らはご公儀をなんと心得る!」

「・・・・」

「お主の不始末は大隈(=斉興)の不始末でもある。場合によっては大隈にも呼び出しがかかるかもしれんのぉ」

これは遠まわしに「殿様に累を及ぼしたくなければ死ね」と言うのと同義です。この意味を理解した笑左衛門は薩摩藩邸の片隅で自害して果てます。享年73。

なお、阿部に公儀で禁じられている昆布取引の証拠を持ちかけたのは、いうまでもなく世子斉彬。幕閣を動かしてまで調所を殺したかったのですねぇ・・・今回選挙の「刺客」どころではありません。本当に殺してしまったのですから。

その後も斉彬は由良の殺害を腹心を使い画策しますがとうとう親父斉興の怒りが爆発。斉彬派を一斉検挙し、切腹・遠島・謹慎等51名を処罰。罪状には「(斉興を)隠居させ(斉彬に)家督を継がせるよう画策した」と明記されており、一字斉彬自身も危険な立場に立たされました。が、そこは幕閣とのよしみの深い斉彬。そうそうたる面子を「利用」して親父斉興を隠居させ、晴れて島津家28代目の家督を相続いたしました。

この斉彬、維新回天の志士にも多大な精神的影響を及ぼしており、特に西郷隆盛は終生斉彬を「順聖公」と呼び神格化しております。また、残された笑左衛門の一門は役職を解かれ屋敷は没収、あまつさえ斉興の死後(ちなみに斉彬は親父斉興よりも先に死んでいます)ありもしない理由で家格を6段階下げられる始末。維新が成り斉彬派の人間が新政府の要職を占めていくにつれ、ますます調所は「改革を阻害しようとした悪家老」というイメージを振りまかれていくことになりました。その結果今日に至るまで「斉彬」=名君・正義の味方であり、それに対する調所は悪の権化・銭ゲバの悪家老というイメージが定着している観があります。

しかし、一歩下がって考えると調所の「改革」なくしては薩摩藩は今日明日の米代にも事欠く状態で、とても維新回天の業に参加できる状態にはないことは明らかです。いくら斉彬が英明でも、いくら西郷が有能で豪胆でも、軍備を整える金・京で政治活動を行う金がなければ何も出来ません。それを可能にしたのが、何を隠そう調所笑左衛門であります。いわば「維新は調所が作った土壌の上に咲いた花」である、と私は考えます。

以前「国政に携わる人の中に調所笑左衛門のような人が出て欲しい」と書きましたが、とても無理かなと言う気がしています。文字通り命がけで財政問題=借金返済を成し遂げる覚悟が最低限必要ですし、その覚悟をもってしても成功は保証されません。なによりも改革を行うモチベーターとしてのビンボーさが今の日本には幸か不幸かありません。(表面化していないだけかもしれませんが)今日「改革」を叫ぶ人たちの中にもそれほどの人は見当たりませんし・・・

ここで唐突にNHKに提案です。「調所笑左衛門」を大河ドラマの主人公にしませんか?

主張する理由は

①維新回天の隠れた大功労者である

②今日余りその名を知られていない(→プロジェクトXみたいですが)

③栄光と挫折というドラマの要素をこれでもかと言うほど持ち合わせている

④悲劇的な最期が今日まで続いている

と言う点から、ドラマとしても大変面白くなると思うのですが。どうでしょうか?

大河ドラマでなくとも「その時歴史が動いた」ならすぐにでも取り上げそうですね。(すでに取り上げられているかもしれませんが)

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2005年10月24日 (月)

出でよ、平成の「調所笑左衛門広郷」③

おはようございます。

さて、23年間つとめた茶坊主を卒業した笑左衛門に与えられたのは参勤交代の費用1万2千両(以前は1万5千両だったのですが、切り詰めてこの額に)の調達と言う役目。しかし薩摩にそれだけの金は最早無く、借金もできず(踏み倒してますからね)というピンチを何とかかんとか潜り抜け資金調達をなしとげます。このときの格段の才知を見せるでもなく、ただ重豪に命じられたことを黙々とこなしたというのが正解のようです。

次に命じられたのが「踏み倒し資金」10万両の確保。前回の「踏み倒し」では手元に蓄えなく実行したために繋ぎ資金がまったく無く生活資金にも事欠く有様に陥ったのを踏まえ、踏み倒し(正確には10年間の元利支払い停止)の前に資金を確保しておく作戦。その資金調達を笑左衛門に命じます。

一旦笑左衛門は辞退しようとします。が、豪腕殿様にはいかなる言い訳も通じるわけも無くしぶしぶ大阪へ。予想通り資金調達は難渋を極めますが、そこで運命の出会いが。薩摩の特産品(特に砂糖)の商いに食い込もうと狙っていた中堅商家出雲屋孫兵衛。借金の申し出に来た調所の余りの経済・商売への無知さと朴訥さに打たれてか、経営コンサルタントを買って出ます(もちろん薩摩の特産品を商うという狙いがあったのですが)この調所・出雲屋コンビで10万両の調達にも成功します。なんか、経営に詰まった中小企業のような話ですね。でも出雲屋に出会えて本当にラッキーでした。もしこの出会いが無ければ、本当に薩摩藩は倒産していたかもしれません。

10万両を確保したのちも出雲屋の経営指導により借金(日常品のツケ)を片付けていき、琉球貿易の品数を増やす&規定外の量の取引を行うなど増収策もとりつつ少しずつ経営を立て直していきます。そしていよいよ250年払の実行です。

ある日薩摩藩大阪屋敷に借金をしている両替商を呼び出します。「ようやく借金を返すめどが立ったので証文を持って屋敷へ来い」と。へえ、薩摩はんやっと返してくれるんでっか、と証文をもってやってきた商人たち。調所は言う。「借金額の確認をしたい。証文を預けろ」素直に証文を出す商人たち。証文を奥へもって行き、確認をするふりをして焼いてしまいました。そしておもむろに宣言します。

「おのおの方への借金は以後250年間にわたって返済する」

「そんなむちゃくちゃな。そない言うなら証文返してくんなはれ」

「証文はない。焼いてしまった」

「えー、そない殺生な」

というやり取り・怒号が飛び交ったもののどうにもならず、しぶしぶ250年賦というむちゃくちゃな返済方法が承認されました。(ご利用は計画的に、なんでもんじゃないですな)

調所の名誉のために書き加えますと、決して払わないというのではなく分割払いにしてくれ、ということを強引に認めさせたのであり、事実以後廃藩置県で薩摩藩がなくなるまで返済を行っております。でも今の銀行なら絶対に認めねえな、こんな返済方法。

500万両という天文学的な債務を整理し、100万両の備蓄金を蓄えることに成功した調所笑左衛門。薩摩をビンボーから救った英雄として今に至るまで称えられてもおかしくない業績をあげたものの、この後悲劇に見舞われます。それについては、次回。

※人気ブログランキング、2桁復帰!!ただ今(10/24 6:56時点)92位に再浮上。と言うことでMOTIVITALに一票にくりっくいただけると、ワタクシ大変うれしゅうございます。このご恩は必ず返します!!250年賦で。

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2005年10月22日 (土)

出でよ、平成の「調所笑左衛門広郷」②

おはようございます。

前回の出でよ、平成の「調所笑左衛門広郷」に沢山のTBを下さった池田正太郎さんのブログで紹介されていた「調所笑左衛門-薩摩藩経済官僚」と言う本を読みました。

恥も外聞も無く前言撤回いたします。

無理です。こんな巨大な人の出現を期待するなんて。

また、ろくに調所笑左衛門のことを知りもしないで文章を書いた自分を深く恥じました・・・

まず驚いたのが薩摩藩のビンボーさ。年収12-14万両で借金500万両というからかなり苦しい台所事情であったことは察しが着いておりましたが、参勤交代の費用(1万5千両)を用立てるのも儘ならず必死で費用をかき集めようやく参勤交代が可能になったり(このため一時本気で幕府に参勤交代の一時免除を願い出ようとしていたようです)、江戸詰めの藩士の給与が13ヶ月連続で欠配になったり(しかしどうやって食ってたのだろう?)、あろうことか参勤交代で江戸に上がった殿様が駕篭代が出せないために月に2度の江戸城への登城をサボったり・・・現在に例えると議事堂への交通費が出せないために(決してお菓子の講演会に出ていたためではなく)国会をサボる国会議員みたいなものです。信じられます?

この餓死寸前の懐具合を何とかしようと孤軍奮闘したのが25代重豪と言う殿様。この豪腕殿様、色々やろうとするのですが、いかんせん累代の借金(10歳で家督を継いだ時点ですでに100万両の借金があったといいます)の上に公金をくすねる「黒い頭の鼠」=腐敗した藩官僚や参勤交代・お手伝い普請等で出費を「強要」する幕府や将軍家の姻戚・加賀藩に次ぐ大藩であるという格を守るための交際費といった環境の中借金は減るどころか増える一方。業を煮やした重豪は利子の減額・利払いの停止を強行。しかしかえって大手の金融機関(両替商)にそっぽを向かれ、追加融資を受けることが出来なくなってしまい、新たな借金を中小の金利の高い金融機関(現在に例えると、消費者金融?)に借りざるを得なくなり・・・という悪循環に陥っておりました。そしてついに借金自体の踏み倒しを実行。当然大手両替商は猛反発。中小の両替商も「薩摩に手を貸すな」が一種合言葉になってしまったようでございました。(注:この時点ではまだ調所はただの茶坊主でした)

二進も三進もどうにもブルドック、ハァ!という進退窮まった状況の中息子を隠居させた後(つまり、その時点で孫が藩主)も実質的に薩摩藩=島津家の指揮を執っていた大隠居・重豪に長年仕えていた茶坊主・笑悦はその時自分に藩政改革の白羽の矢が立とうとは想像だにしていなかったことでしょう。時に笑悦こと笑左衛門、やっと茶坊主を卒業させてもらったばかりの37歳。経済のケの字も知りません。

と書いたところで息子が起きだしてきました。ギャー、風邪引いてんねんからベランダに出るなー!!と言うことで続きは次回です。部屋に入っとかんかい!!

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2005年10月13日 (木)

出でよ、平成の「調所笑左衛門広郷」

当初書こうと思っていたのとは違うネタですが、なんか眠れない&突発的に書きたくなったので書いちゃいます。

zusho表題の「調所笑左衛門広郷」(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)とは江戸後期の薩摩藩主・島津重豪(しげひで)・重興(しげおき)・斉彬に仕えた家老で、薩摩藩が抱えた500万両の借金をチャラにした豪腕経済官僚であります。

その半生をさかのぼると元々重豪の江戸付(参勤交代で江戸に出ているときに江戸で仕えたという意味。今で言う「鹿児島県東京事務所所属」でしょうか)の茶坊主出身で、経済官僚として仕え始めたのはなんと40歳を越えてから。当時の薩摩藩は年収12-14万両であるにもかかわらず上方・江戸の商人からの借金がなんと500万両に上っていたのだから、年収50兆円で借金残高760兆円の現日本国政府もびっくり。時の将軍の妻の父であることを笠にきて幕府でもブイブイ言わせていた藩主重豪に50万両の蓄財と500万両の借用証書の回収を命じられたのが笑左衛門53歳の時。おいおい、ずいぶん無茶いうねぇ、この殿様。

で、笑左衛門の取った財政改革は主に以下の3点です。

①奄美の砂糖の専売強化・琉球やオランダとの密貿易といったブラックな方法も交えた増収策

②借金500万両の250年無利子払いの強行

③農地改革・交通網の整備・軍事改革

この中でも特筆すべきはなんといっても②の「借金500万両の250年無利子払いの強行」でしょう。ホンマ無茶するで、このオッサン。事実上の借金踏み倒しですからね。薩摩藩がまだ存在していれば支払い終了までまだ80年残っていますからねぇ。あ、そもそも貸し手の上方商人も今時点でほとんど存在してないですか。(残っているのは鴻池・住友くらいでしょうか?)

しかしこの地獄のような借金踏み倒しおよび財政改革(奄美諸島の民には大いに恨みを買ったようですが)のおかげで多額の蓄財(250万両)ができ、そのおかげで最新鋭の軍備を整えることが出来たのですから、維新回天の大功労者といっても過言ではない存在なのです。

しかしながら、その存在は全く目立っていません。というのもこの広郷、晩年重豪の子・重興と孫・斉彬の権力闘争「お由羅崩れ」の際に重興サイドに立ち、斉彬サイドからなされた「密貿易の幕府への密告」の責を一身に受け服毒自殺に追い込まれているのです。そして、斉彬は維新の志士・西郷隆盛や大久保利通を登用した人物。斉彬派の薩摩人脈によって、調所の子孫は迫害を受け、歴史からその功績が抹殺されてしまいました・・・

今なぜ調所笑左衛門広郷を取り上げたか。ずばり「現在日本の危機的な財政を立て直そうと思ったらこれくらい思い切ったことをする人物が出ないと立ち行かないのでは?」という思いからです。年収の15倍以上の借金を解消しようと思ったら、掛け値なしに「一命を賭する」「名も命もいらぬ」覚悟でないと達成できないと思うのです。

現日本国を振り返って、それだけの覚悟を持った人間がいるでしょうか。「殺されてもいいから解散する」と言った首相はいますが、果たして彼に本当に殺される覚悟があったでしょうか。また、政府税調・財務官僚の中で、たとえこれほど乱暴な手段を講じてまで日本の借金解消を果たす覚悟のあるものが、果たしているでしょうか。

こう書くと「人に期待するばかりでなく、お前はやらんのか?」と聞かれそうで心苦しいのですが、行財政改革を担う立場にある人達(政治家・財務官僚)にあえて言います。「出でよ、平成の調所笑左衛門」、と。

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2005年8月28日 (日)

幕末パロディ小説「水煮幕末太陽傳」その1

【第1回 ブラック・キャデラック】

とんびがくるりと空に輪を描く、うららかな午後であった。

ここ幕藩商工会議所下田支部では組合支部の月例会が開かれていた。月例会といってもたいした議題も無く、まあ地元の社長の寄り合いみたいなものであり緊張感というものが皆無であった。

いまなら白昼堂々とプラスチック爆弾を置いていったとしても誰も気にも留めなかったに違いない。そう思わせるほどの弛緩ぶりであった。

よく言えば、平和。悪く言うと、平和ボケ。インリン・オブ・ジョイトイの世界であった。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」~何事も永遠に続きはしない。変化は突然訪れる。

商店街にまるで不似合いな4台の黒塗りのキャデラック。狭苦しい商店通りを抜け、幕藩商工会議所下田支部の前に着けた。

まず車から降りたのは「メン・イン・ブラック」な屈強なボディーガード達。全員サングラス。必要以上に膨らんだ内ポケット。どう見てもその筋の方々にしか見えない。周りを不必要なほど警戒した視線をめぐらしながら、2台目のキャデラックの後部ドアを恭しく開けた。

のそっ。その男もレイバンのサングラスをかけていた。雲を突く、といったら大げさになるが、そう思わせるほどの巨漢であった。

巨漢はメンインブラックを引きつれ、まっすぐ受付へ向かう。

受付係も、周りの事務員も余りに見慣れない風体の男たちに凝固してしまっている。「蛇に睨まれた蛙」の状態とはこのことか。

「マシュー・ペルリ言イマス。」巨漢に似つかわしい大声で名詞を差し出す。

“USオイル株式会社 東洋太平洋地区統括責任者 マシュー・ペルリ ”

「ま、摩周様でいらっしゃいま・・・」

「ココデ商売スル、商工会議所ニ入ル必要ト聞イタ。私タチ会議所入リタイ。会長ニ会ワセテイタダケルカ?」

「しょ、少々お待ちくださいぃ・・・」半泣きになりかがら受付係は月例会場に向かった。

月例会場。

「しかしあれですな。このごろ巨人はいけませんなぁ。」

「ところで最近痛風の方はいかがです?」

無邪気なおっさん会話の中に、半泣き受付係が駆け込んだ

「どうしたんだ?何かあったのか?」

「ま、ま、摩周という人がお見えなのですが・・・」

受付係のただならぬ様子に何かを感じ取ったのか、ちょっぴり緊張が走る。

「たちの悪い売り込みか?ワシが相手してやろう」

月例会参加者最高齢の支部長が立ち上がった。

「あ、皆さんはこのまま続けてください。すぐに戻りますから。」

「アナタガ会長カ?私マシュー・ペルリ言イマス。」

レイバン、巨漢、シェイクハンド。のっけからペースを持っていかれた。

「いや、私はただの支部長で・・・」もう語尾はほとんど聞き取れない。

「私タチ幕藩商工会議所入リタイ。是非入ラセテ欲シイナリ!」

「い、いや、だから私は会長で無いのでなんともかんとも・・・」

「ナニ、アナタ会長違ウ?デハ会長ハドコニイル??」

「会長は東京ですが、第一うちは新規会員の入会は受け付けていない・・・」

理不尽ナリ!!

巨漢が巨声を発すると、支部長以下周りの皆がひっくり返った。巨声の直撃を受けた支部長は今にも失禁しそうな勢いだ。

「今ノゴ時勢、自由ニ商売デキナイナンテコトガ許サレテ良イノカ!イヤ、良クナイ!!」

「でで、でも入会を許すなんて事、私の一存ではどうにも・・・」

「会長ニ報告シロ。協議シテオケ。結果ヲ又聞ニクル!」

そう言い残すと、巨漢はメンインブラックを引きつれ、黒塗りのキャデラックに戻った。バム、バムとドアを閉め、4台のキャデラックが再び狭い商店会を抜け、去っていく。

その姿を、幕藩商工会議所下田支部の会員(=企業の社長)、事務員、受付係、商店街の人々全てが、呆然と見送った。

「あんなのと付き合うの?いやだよ、私ゃ」                 (続く)

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